「保険をかける」のは好きじゃない。不安や心配ではなく希望を描きたい

十月桜
2月に咲く十月桜

「保険をかける」のは昔から好きじゃなかった。

大学受験のとき、第一志望の大学の試験しか受けなかった。他に行きたい大学がなかったので、落ちたら浪人しようと思った。センター試験の結果があまりよくなかったので、担任の先生との受験前の最終面談で、「硲(はざま)は来年やな」(今年合格するのは無理だから)と言われて、ぼくもそのつもりでいたが、なぜか受かった。

保険をかけると、一番向かいたいところへ向かうエネルギーがちょっと削ぎ落とされてしまうような気がする。

そして、起こると困るシナリオに引き込まれてしまいやすくなるようにも思う。

ぼくは健康関係の任意保険に一切入っていない。毎月、病名が書かれた明細書が届いたら、その病気について毎月思い出すことになる。その病気になったらどうしよう、と思うことで、その病気を近づけてしまうような気がする。忘れているくらいがいい。外出先でついているテレビをたまに見ると、いろんな好ましくない事態が起こる可能性を持ち出して視聴者をびびらせる情報があふれていてイヤになる。それを見せておいて、その対策のための商品やサービスを売りつけようという作戦らしい。

本当は田舎で暮らしたいけど、老後に近くにいい病院があったほうがいいから都会で暮らす、という話を時々聞くけれど、「保険嫌い」のぼくにはとてもマネできない考え方だと思う。ぼくだったら、田舎で暮らしたいと思うならひとまず田舎で暮らし、どうしても近代的な医療センターにお世話にならなければいけなくなったら、そのときはそのときで引っ越す。都会でコンクリートに囲まれて排気ガスを吸いながら暮らすより、田舎で草木に囲まれてきれいな空気を吸って暮らすほうが、病気にもなりにくくなるのではないかと思う。

ちなみにぼくは、国民健康保険は強制加入なので入っているけれど、香川に移住してから今までの約3年間、病気をしていないので一度もその恩恵を受けていない。どうやってつくられているかわからないクスリは基本的に飲まないので、具合がわるいときは病院に行かず、庭の薬草に助けてもらい、しばらく寝ているとすぐによくなる。

そういえば、一度だけ、「保険に入っていてよかった」と思ったことがある。

東京で暮らしていた頃、引っ越し業者にお願いするより自分たちで荷物を運んだほうが安いと思い、レンタカーを借りて何度も往復して荷物を運んだ。車は普段乗らないし、乗り慣れない大きな車を借りたのもあって、飲食店の駐車場から出るときに鉄のポールにぶつけて車を凹ませてしまった。保険に入っていなかったらいくらかかっただろうと、冷や汗ものだった。結局、保険に入っていても、引っ越し業者にお願いするのと同じくらいのお金がかかった。

保険に頼らずに生きていくには、それなりの心構えと知恵と技術が必要になるらしい(それらが不足していると、レンタカー事件のときのように、保険が必要になる)。

現代社会では、お金を自分たちのところに回すことに必死にならざるを得ない仕組みができているので、テレビや広告などの情報に接していると、保険や保険のための商品やサービスが必要に思えてきて、ないと不安にさせられやすい。保険なしで生きていける方法を教えてくれる人はあまりいない。

小さな子どもは、将来のことを何も心配していないように見える。それは世間や社会のことに無知だからではなく、人間は本来、不安や心配ではなく希望を描いて生きていける存在なのではないかと思う。ところが、中学生くらいになると、不安や心配のほうが大きくなってきやすいようだ。希望が不安や心配に変わる年齢は、ぼくが子どもだった頃よりも下がってきているのではないかと思うこともある。生まれ育った環境にもよる。小さな頃から未来にほとんど希望を描けなかったという人もいるはず・・。

保険をかける必要性なんて誰も感じず、誰もが希望を抱いて生きていける世界をつくるにはどうすればいいのか。そのための方法を、ぼくは自分の人生で実験していきたい。


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