写真が面白くなって約二ヶ月間カメラに取りつかれたかのようになっていましたがそこから学んだ学びを言葉にしておきたいと思います。
📷️🌈
写真はただ目に見えたもの記録するだけのツールではない
自分の目に見えたものを自分なりの方法で切り取ること、それが自分自身の表現になる
頭で意図したことも意図していないことも、その画像に表現される
自分自身のための記録になるとともに、他人に見せることで自己表現の手段にもなる
他人はそこから様々なものを読み取る
その人自身の方法で
写真はさまざまなツールになる
記録ツール
伝達ツール
自分の心、感情を解放するツール、癒しのツール
自分の写真を見て気づきを得る内省のツール
写真の撮り手を知るリーディングツール
世界を拡大したり色付けしたりして見るフィルターとしてのツール
目に見える世界に積極的に関わって行く気にさせる興味・関心刺激ツール…
どんなツールとしてカメラや写真を用いるかはその人次第
ツールがその使い手に与える影響はツールの使い方によっていかようにも変化する
自分なりの使い方を探求しているところに面白さがある
写真のことを考えていると「真・善・美」という言葉がよく頭に上る
自分や他人が撮ってる写真がどういう写真かを理解するときに
この「真・善・美」のトライアングルが役に立つ
それは真実を写したものかどうか
撮る人の真実を表現しているかどうか
目に見えるものを切り取ることは真実の一部を表現することに違いはないだろう
しかし、その切り取り方、表現の仕方、発表の仕方に
撮り手が真実の表現を欲しているかどうかが表れる
真実の表現というようなものがあったとして
それが良いか悪いかではなく
撮り手がそれを求めているかどうか
写真における善とは何だろう
中心にくるのは撮り手の心にしっくりくるかどうか
その表現が自分の心に平和と安らぎをもたらすかどうか
倫理や道徳といったものは時代や社会によって変化する
自己表現とプライバシー侵害の葛藤
それは各自が自分で折り合いをつけ、責任を持つこと
真実があっても善が欠けていれば
ある鑑賞者にとっては美が失われるだろう
また別の鑑賞者にとってはそこに美を感じるだろう
美は善悪に規定されるものではない
美の共通見解はある程度成り立つだろうけれど全員に一致するものではない
美には層がある
どの層の美を求めるかは人によって異なる
美しいと感じたのであればそこには何かしらの形での美が存在する
美は目を通して心で感じるもの
何が心で美として響くかどうかは鑑賞者の目と心の状態による
美の追求に専心すると真と善が置き去りにされていくこともある
美は時に抗いがたい魅力を持つ
美はアートの要素を多分に構成する
善の追求はアートから離れることもある(しかしアートにも善が求められる傾向が強くなってきた)
真は美をもたらす
それは見た目を越えたところでの美であることも多いだろう
真の追求が美の意識を薄れさせることもある
真による美は古びにくい
しかし真による美は理解されないことも多い
*ここから先は、車を運転しているときに、写真狂い期間の総まとめのように英語で浮かんできたメッセージ(後から多少かたちを整えていますが)
We don’t need to look for beauty outside
ourselves.
(自分の外側に美を探し求める必要はありません)
Beauty is within us.
(美は私たちの内側に存在します)
(美は時に、私たちの心のドアをノックしてきます。見られようとして、注意を引こうとして)
(ただただ、待たずして待つ)
Beauty is in the eye and the heart of the beholder.
(美は見る者の目と心に宿ります)
(私たちに必要なのはただ、心のレンズをいつもきれいに磨いておくこと)
(目やカメラは光を捉えます)
(しかし光はすでにそこにあります)
(私たちはその光を、物理的に見なくても感じることができます)