能力

能力や技術を獲得したり高めたりすることへの執着。これが人生を苦しいものにすることがあります。

能力を獲得したり高めたりすることは、もちろん人生の喜びだったりもします。生きるモチベーションになったりもします。

修行的な生き方。ぼくはもうそれをやり尽くして、苦しくてうんざりしたのだと思います。修行的に自分にムチを打って、他人と切磋琢磨しなくても、子どもが好きに自由に遊ぶようにして進化・成長していけるなら、そのほうがラクで楽しくていいなと思います。

そんな甘い話があるものか。というのも一つの考え方で、一つの設定です。そんな甘い話があるものよ。というのも一つの考え方で、一つの設定です。どっちを選ぶかだけの問題です。

同じことでふた通りのやり方を試してみると、どっちも有効で、どっちもそれぞれの方向性に沿って機能することがよくわかります。ぼくの場合、10代の頃に修行的に英語の勉強をして(その時はその方法に燃えていたわけで、それがよくなかったとは思いませんが)、それなりに英語を身に着けてきましたが、通訳の仕事を始めてから改めて英語の勉強を始め、今度はなるべく修行性を排除するようにして取り組んでみたところ、英語を身に着けていくというプロセスの生じ方がずいぶん異なり、今の自分にとってはこのほうがラクで自然だということがよくわかりました。昔の癖で、ちょっと修行的な方向に入っていくと、途端に毎日が楽しくなくなってきます。日々の喜びが薄れていくので自分ですぐに気づき、軌道修正します。

最近、子どもの頃大好きだったとある漫画を英語で数日続けて読んでいたら、英語力は高まっていきそうだけど自分の思考やエネルギーに悪影響があることに気づき、すぐにやめました。漫画を読むのは面白くてハマっていきそうなんだけど、今の自分の本質的なところが求めている面白さではないのだとわかりました。今の自分にとっての最善を選び続けるのが大事です。そこからずれると、すぐになんらかのシグナルが教えてくれます。それを受け取ってすぐに起動修正すればいいわけですが、ずっと無視していると、どんどんシグナルも大きくなってきます。体が悲鳴を上げたりします。それで体のあちこちを痛めてこりごりしたので、最近はシグナルに気づくのが早くなってきました。痛みを通さずに学べればラクですが、痛みを通してようやく学ぶこともあります。そのように痛みは役立ってくれるので、痛みにも感謝です。

自分の今手持ちの選択肢の中で最善のことをし続けていれば、自分に必要な能力は自然とついてくるものだということがはっきりしてきました。無いものねだりや焦りは、人生を重苦しくします。自分にすでに備わっているもの、すでにあるもので楽しんでしまう工夫も大事です。楽しむといってもチャレンジが伴わないわけじゃないけれど、なるべく自分にやさしく、リラックスして、この人生の時間を投入する意義を感じること(そこまでいかなくてもなるべくマシなこと)を選び続けていれば、結果的に自分が最適だと思えるような変化が起きてくるものだということがわかってきました。必要なことは起こそうと思わなくても勝手に起きてきます。