ぼくは「音」が好きなのだと、この頃あらためて思った。

この人生ですごく感動したのを覚えている最初の記憶は、幼稚園で先生が弾いたオルガンの音だった。オルガンの音色、というよりも、和音のハーモニーに感動したのかもしれない。胸が喜びで満たされた感覚を今でもなんとなく覚えている。

英語が好きになったのも、音だった。英語の発音に妙に惹かれて、自分もそんな音が出せるようになりたいと思った。聞いて真似してみたり、教材で舌の位置や口の開け方などを勉強してずいぶん練習した。

誰かに会ってくると、その人が話してくれた声がよく記憶に残っている。どんな服を着ていたかは覚えていないどころか全く見てなかったりする。自分が好きだったり興味があったりするところに自然とフォーカスが行く(服も好きなんだけど…)。

声はその人独自の音。人の数だけいろんな違った声があるというのは面白い。よく似た声はあるけど、全く同じ声というのは無い。似ている人は声も似ていたりする。

ブライアン・シャイダーさんの「ディバイン・インセプション」という本を読んでいたら、水中では光よりも音の方が速く進み、人体は75%が水でできていて、人間の身体は光よりも音の周波数に強く共鳴する、という話があった。

音の影響力はすごい。イライラした声や怒鳴り声は不快感を瞬時に招くし、美しい音色は感情をクリアリングしてスッキリさせてくれる。

自分が出した声の影響はまず一番に自分が受けている。声を出しながら自分が耳にし、直接自分の体を振動させている。

自分の変化とともに声も変わっていく。声が変わったときにはあれこれ変化している。

声を声としてではなく音として捉えてみると、またちょっと違って聞こえてくることがある。

自分が惹かれる声には、その理由を探そうと思えば何かあるのだろう。なぜか知らないけど惹かれる声というのがある。それが人によって違うのがまた面白い。

声について何かを主張したいわけじゃないけど、何かを書きたくなった。そういえば、ぼくは文章を書くときも、読むときも、音として書き、読んでいる。読むときは、著者の声を音で聞きながら読んでいる。だから、著者の声が聞こえにくいほど文章が編集されている本はちょっと読みにくい。とはいえ、完全に著者の声で聞こえるわけではなく、自分の声も混ざってくる。それが文章のまた面白いところなのかもしれない。読む人によって違って聞こえてくる。自分の中で響かせているのだから、自分がどうなっているかで響き方が違ってくる。

ぼくは音が好きなのは自覚しているけど、ピアノはあまり自由に弾けず、ギターも練習しすぎて指を痛め、他に好きな楽器を探してみたけど夢中になれるほどの楽器は見当たらなかった。結局、楽器よりもしゃべったり書いたりするほうが向いているのだとわかってきた(楽器も楽しい範囲で続けていくけど)。カタチにとらわれず、生きている限り、音を出し続けていく。音を聴き続けていく。もっともっと調和に満ちたハーモニーを求めながら。