自分の変化が激しい時期にはブログの更新が止まりがちですが、何か書きたくなって書いています。
気分転換に本屋に行ったら、日記みたいな本が目にとまって、著者がどういう方なのかも知りませんが、ただの日記みたいなのでも文字が並んで本になっているとなんだか素敵だなぁと思いました。それもあって、ただの日記を書いています。
誰かのただの日記が読んでいて面白かったりします。ただの日記なのがよかったりします。ブログのはじまりの頃はそんな感じだったように思います。その後、SNSもでてきて、つながる面白さにネット上のフォーカスが移行したように思いますが、つながり疲れている方も多いかと思います。日記的なものを読み合うのはほどよいつながりだったりするのかもしれません。どっちがいいかではなく、その時々で自分自身が何を求めているか、ですが。
というわけで、気が向いたときは日記的なものも書いていこうと思います。
ここまで書いて、これを書こうと数時間前に思っていたことを思い出しました。
人間の意識というものは層のようになっているように感じます。自分はこういう人間だ、自分は今こう感じている、こう考えている、という自己認識をさらに高い視点から認識する自分もいます。その自分をさらに高い視点から認識する自分もいます。
ぼくの場合、書く姿勢をとることで、より自分を俯瞰しやすくなるのを感じます。ペンを持って紙に向かうと何かをネガティブに捉える視点が薄れていくという不思議な感覚が昔からありました(今はパソコンとキーボードですが)。人によってそのような効果を生むツールはいろいろなのでしょう。絵だったり、ダンスだったり、歌だったり。それは技術ではなく。技術の視点で見るとわかりづらいので、自分ではわかりづらかったりします。いわゆるその人らしい美点みたいなものがにじみ出る表現方法というのが誰にでもあると思います。自分でわからなければ、周りの人にきいてみると、意外なヒントがもらえることがあるかもしれません。うれしい話はお世辞だと思わずにひとまず真に受けてみるといいかもしれません。
気分転換に本屋に行ったら、日記みたいな本が目にとまって、著者がどういう方なのかも知りませんが、ただの日記みたいなのでも文字が並んで本になっているとなんだか素敵だなぁと思いました。それもあって、ただの日記を書いています。
誰かのただの日記が読んでいて面白かったりします。ただの日記なのがよかったりします。ブログのはじまりの頃はそんな感じだったように思います。その後、SNSもでてきて、つながる面白さにネット上のフォーカスが移行したように思いますが、つながり疲れている方も多いかと思います。日記的なものを読み合うのはほどよいつながりだったりするのかもしれません。どっちがいいかではなく、その時々で自分自身が何を求めているか、ですが。
というわけで、気が向いたときは日記的なものも書いていこうと思います。
ここまで書いて、これを書こうと数時間前に思っていたことを思い出しました。
人間の意識というものは層のようになっているように感じます。自分はこういう人間だ、自分は今こう感じている、こう考えている、という自己認識をさらに高い視点から認識する自分もいます。その自分をさらに高い視点から認識する自分もいます。
ぼくの場合、書く姿勢をとることで、より自分を俯瞰しやすくなるのを感じます。ペンを持って紙に向かうと何かをネガティブに捉える視点が薄れていくという不思議な感覚が昔からありました(今はパソコンとキーボードですが)。人によってそのような効果を生むツールはいろいろなのでしょう。絵だったり、ダンスだったり、歌だったり。それは技術ではなく。技術の視点で見るとわかりづらいので、自分ではわかりづらかったりします。いわゆるその人らしい美点みたいなものがにじみ出る表現方法というのが誰にでもあると思います。自分でわからなければ、周りの人にきいてみると、意外なヒントがもらえることがあるかもしれません。うれしい話はお世辞だと思わずにひとまず真に受けてみるといいかもしれません。