冬の仕事の一つに、庭木の剪定がある。
写真に写っている左の木はフェイジョア、右は多分カシの木。フェイジョアは、根元に鉄の棒が何本も差さっていたり(昔、支柱にしていたのだろう)笹に負けたりたり弱っていたが、去年手入れしたら、だいぶ元気を取り戻した。
庭木の手入れというと、子どもの頃、祖父母の家の庭木を刈込ばさみでチョキチョキと刈り込んだ記憶がある。木の散髪のようで、楽しかった(人間相手だったら怒ってきそうなくらい短髪にしたり虎刈りにしたりしてしまっていたけれど…)。
香川に来て庭木の剪定をするのは、そのとき以来だった。最初は何となくでやっていたが、どうも木が不安そうにしているので、前から気になっていた「切り上げ剪定」のことを勉強すると、だいぶ迷わずに手入れできるようになった。切り上げ剪定とは、簡単に言うと、横や下向きに伸びる枝を切り、上に伸びる枝を残して樹木の生命力を引き出す剪定方法。昨年初めてその方法で庭木を剪定してみたところ、どの木も元気そうで、やり方は間違ってなかったように見える。
「切り上げ剪定」と言っても、本で読んだだけでは理論的なことは少ししかわからないので、とにかく、目の前の木と向き合って対話することが大事だと思っている。木が切ってほしいと思っているところを切ると、木はさっぱりと身軽になって喜んでいるように見える。反対に、切るべきではないところを切ってしまうと、怒りはしないけれど、「やってもたなぁ…」とがっかりしているように見える。「擬人法」でそう言っているわけではなく、木にも人間と同じように感情があるように感じられる。
まだ途中だけど、だいぶさっぱりとした。
剪定を終えて家に戻ると、「終着点を予め決めておくことが大事」だとふと想った。植物相手の場合、特にそうで、相手は生きものなので、「終わり」がないことが多い。完全に納得いくまで一つの作業を突き詰めようとすると、時間がいくらあっても足らない。剪定に終わりはないし、草刈りにも終わりはない。ここまですれば満足、というところはあるが、それがどこであるかは、自分が決めること。パソコン仕事では、「終わり」がはっきりしていることが多いが、自然相手、自然の中の仕事では、「終わり」を自分で決めることが多い。ずっと都会暮らしだったので、その違いに慣れるまで、しばらくかかった。
「終着点を決めるというのは、つまりはビジョンを描くこと」だとも思った。何となく出発して、そのうちどっかへたどり着くだろう、というのでは、回り道が多くなるし、自分が望まない場所にたどり着くことになるかもしれない。目的地をはっきり決めてしまうと、それにとらわれすぎるおそれがあるから、あえて目的地は定めずに進んでいこうとしていた時期もあったが、最近は、目的地をもっとはっきり思い描くことが必要だと感じている。進み始めて、途中で目的地を変更するのもあり。途中で変更したってかまわない、という柔軟さを忘れなければ、一旦定めた目的地にとらわれすぎることもない。
どう剪定するか、庭を最終的にどういう形にするか、この人生をどう生きるか…。「終着点をはっきりさせろ」と、剪定中の木がアドバイスしてくれたのかもしれない。
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by 硲 允(about me)
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