「GDPに全然貢献してない」と言われた話と、現代社会のシステムについて

香川に来て最初の年(2014年)は、初めてのお米づくりにチャレンジし、機械を使いたくなかったので、毎日毎日ひたすら鎌で草刈りをし続けるような暮らしだった。東京での暮らしに疲れ、パソコン仕事をなるべく減らそうと思っていたので、翻訳なども仕事もあまり受けず、田畑仕事(といっても自給用)に集中していた。

そんな話を友人にすると、「GDPに全然貢献してないやん!」とつっこまれた。

予想外の言葉に一瞬戸惑い、どういうことなのか理解するのに数秒かかった。そうか、都会で会社の仕事をしていると、GDPに貢献していることを誇りに思っているというか、そこにある種の意義を感じているのだと推測した。ぼくも都会で仕事をしていたが、GDPへの貢献については特に考えたこともなかったしどうでもいいと思っていたので、都会か、田舎か、というわけではなく、個人の考え方の問題だろう。田舎でもGDPにたくさん貢献している人はいるし。

「GDPに貢献していない」と言われ、ぼくはそのことに対し全くうしろめたさを感じず、自分がダメなヤツだとも思わなかったが、GDPへの貢献だけが「社会貢献」ではないと思っていることは伝えたかった。「GDPには貢献してないけど、放置されて荒れてた田んぼ、畑を活用したり、森の手入れをしたり、地域にはちょっとは貢献してるで」とかなんとか、苦し紛れに答えた記憶がある。友人はちょっと酷いことを言ってしまった、と思ったのか、「それもそうやな」と、ぼくが社会で役立たずの人間ではないと認めてくれた様子だった。

それにしても、GDPとは何だろう。池袋でオーガニックバー「たまにはTSUKIでも眺めましょ」を営む(2018年3月末に閉店予定)髙坂勝さんの著書「次の時代を、先に生きる。 - まだ成長しなければ、ダメだと思っている君へ -」を読んでいると、ロバート・ケネディ(貧困の撲滅、黒人問題、人種問題などに取り組み大統領に立候補したが1968年に暗殺された)による演説で、GDPについて話したくだりが紹介されていた。

「GDPには、大気汚染や、たばこの広告や、交通事故で出動する救急車、ナパーム弾や核弾頭、街で起きた暴動を鎮圧するための武装した警察の車両、玄関の特殊な鍵、囚人を囲う牢屋、森林の破壊、都市の無秩序な拡大による大自然の喪失、ライフルやナイフ、子どもにおもちゃを売るために暴力を美化するテレビ番組、も含まれている」(p. 275)
GDPとは、「一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額」。当然、それが増えたからと言って、必ずしも幸福な社会になるとは限らない。暴力や自然破壊など、不幸の原因が発生することによってもたらされる経済活動や、人間の暮らしを幸せから遠ざける経済活動がある限り。

もちろん、現在社会で快適に暮らすために必要な経済活動もある。「GDPが上がれば万歳」というのではなく、それぞれの活動を個別に見ていかなければ、その社会が幸福に向かっているのか、不幸に向かっているのかは見えてこない。

企業の活動であれば、生み出している商品やサービスが人間の幸せにつながっているのかどうかを検証してみなければ、その企業の本当の価値(人間の幸せに役立つ企業なのかそうでないのか)は見えてこない。あってもなくてもいい商品やサービスばかり生み出し、人間の労力のムダとゴミばかり生み出している、ということもあるかもしれない。

無意味で役立たずで人間や地球に有害なものばかり生み出している会社であっても、雇用を創出しているのだからそういう会社も必要なのだ、というような話を見聞きすることもあるが、それで納得して「じゃあ、現状維持でOK」ということでは、もっと幸せな世の中にはなっていかない。「毎日、酒を飲みまくってアル中になっているが、仕事のストレスがありすぎるので心のバランスをとるには大量の酒が必要不可欠だ」と言い張るのと同じようなものだろうか。そんな状況に同情して、たしかにそれは仕方がないなぁ、とも思うけれど、根本原因である仕事のストレスを軽減しない限り、病気への道を歩み続けることになってしまう。

世界のあちこちで雇用不足が問題になっているが、要は、今までのビジネスモデルや、今まで生み出してきたような商品やサービスがもうあまり必要ではなくなってきている、ということではないかと思う。人間が幸せに生きるために必要ではないものを生み出し続けても、そのうち、買う人は減ってくる。

人間の暮らしに最低限、必要なものは何だろうか。雨風をしのぐ家と、健康な食べものがあれば、少なくとも生きていける。他人と会うには服も必要か。食べものや衣服の材料を育て、家を建てる土地と技術さえあれば、少なくとも快適に生きていける。幸せに生きるために何が必要かは、人によって異なるだろう。移動しなければ幸せに生きられないなら、移動手段が必要になる。遠くにいる人と通信することが必要であれば、通信手段が必要になる。

本来、テクノロジーに頼らなくても、人間は何でもできる能力があるはずだと思う。空気を汚染する車に頼らなくても、時間さえかければ歩いたり馬に乗ったりして移動できる。遠くで暮らす人に、以心伝心でメッセージを伝えることもできるかもしれない。本来の能力を失ってしまった人間は、それを補うためにテクノロジーに頼ることになるが、多種多様なテクノロジーを生み出し、テクノロジーをもとにしたシステムを維持・発展させていくために、人間の膨大な労力が使われている。そのシステムに組み込まれた人間の暮らしは果たして幸せなものかどうか。雇用されなければ暮らしていけない、という現状は、そうしたシステムの中に組み込まれてしまっていることを表している。

そのシステムを動かす一つの道具となっているのが「お金」。お金がなければ生きられない社会では、とにかくお金を稼ぐ必要がある。今すぐお金がなければ明日の生活も困るのだから、お金を稼ぐ手段が人間や社会の幸福につながるかどうかなんていうことは、気にしていられなくなる。お金を稼ぐために費やす時間が幸せな時間であればラッキーだが、たいてい、退屈で苦痛に満ちた時間である。そうやって自分の時間とエネルギーを注いで得たお金によって得られるものは何か。雨風をしのぐ家と、(よほど慎重に選ばなければ)健康を蝕む食事と、システムの中で快適に面白く暮らすために必要な、あるいは大して必要ではない多種多様な道具と、いざというときにシステムによって助けてもらうための保障と…。

人間の人生は、日々の、一瞬一瞬の時間の積み重ねで構成されている。なるべく自分の多くの時間を幸福な時間で満たした者が、幸福な人生を送ることができる。自分の人生の時間を本当に幸福なものにするためには、他人の人生の時間を不幸にする必要はないはず。ところが、現代のシステムの中である程度快適に生きていくためには、自分や他人の人生の時間を不幸なものにする必要が生じてくる。

システムは固定されたものではない。今までのシステムによって表面的な利益を得てきた集団は、それを維持しようとするが、そのシステムによって恩恵を受けていないと感じているなら、そのシステムを変更するための力を加えていける。現在のシステムから完全に逃れて生きることは難しく、逃れたつもりになっても、いつの間にか絡めとられてしまう、ということもあり得る。拡大し、複雑化したシステムの全容を把握することは難しく、個人がそこに働きかけていける影響力は微々たるものかもしれないが、一人一人の個人の集合体によってシステムは運営されている。そこに自分がどう関わっていけるか、どう関わっていけば、自分の人生を幸せなもにできるかは、自分で考える必要がある。システムを動かしていく力をもった集団は、システムにただ依存している人間を操る術に長けている。うかうかしていると、システムの奴隷となり、自分の人生を台無しにしてしまいかねない。

「GDPを拡大するのがよいことだ」という命題は、現在社会のシステムをある一定の方向へ動かしていく力を持っている。その方向に何が待ち受けているかを見定めなければ、幸せに生きるうえで望まないシステムの実現に手を貸してしまうことになりかねない。


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by 硲 允(about me)
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