憧れの存在を追い続けることについて。

憧れの存在を追い続けていると、人生、あまり楽しくなくなる、ということを時々思う。

ぼく自身、20代の頃はあこがれの存在がいろいろいて、それが移り変わったりして、そうした存在は自分を高めていくのを助けてくれたりはするが、特定の人物を追いすぎると、その人のマネになってきて、自分が本当に求めている生き方からずれていってしまうこともある。

今振り返ると、そういうリスクを高めるのは、インプット過多。他人からインスピレーションやアイデアを得たら、とにかく、小さくでもいいから、自ら実行に移してみることが重要だと思う。いざ自分でやってみると、これは自分に向いているとか、好きだとか、反対に自分には違うということがすぐにわかったりすることがある。

アウトプットよりもインプットのほうがラクなことが多いので、気をつけないと、憧れの存在による言葉や表現を消費するばかりで、自分のことがいっこうに前に進まない、ということもよく起こる。

憧れの存在は、自分にある種の活力を与えてくれもするので、そのエネルギーをうまく生かしていく工夫が重要だろうと思う。

憧れの存在から得た借りもののエネルギーと、自分の内側からわきでてくるエネルギーの違いを注意深く区別するのも役立つ。ぼくは学生の頃、憧れの存在の著書を持ち歩き、暇があればページを開いてやる気を奮い立たせていたが、ある時、そうやって得たエネルギーはどうも借りもので、しばらくの間、憧れの存在の著書を読まずにいてちょっとしぼんできたときの自分のほうが自分らしいと思い、他人から得るエネルギーに頼りきりになるのは危険だと思った。

憧れの存在を追っているときというのは、相手になりきろうとしてしまってどうも胡散くさくなったり、追いつけない自信のなさの裏返しでエラそうになって先生様みたいになったりもしやすい。

ぼくは20代の頃は憧れの存在を追いかけて生きてきたが、いつの間にかそういう存在がいなくなって、だいぶ生きやすくなった。他人と自分を比べても仕方がないと思うようになった。上には上がいるし、誰かと比べて上になった気になって得意になってもイヤなヤツだし、下になった気になっても悔しいし、結局、ロクなことがない。

自分は自分、他人は他人。それぞれ、それぞーれ。自分はしょぼくてもOK。低く見られてもOK。毎日楽しければ万々歳。楽しむには、自分と他人を比べることは邪魔になる。

自分が高まったから憧れの存在がいなくなったのかというと、そんなハズもない。今の自分にとりあえず満足できるようになってきたからかもしれない。そのためには、畑があり、庭があり、いろんな植物や虫たちがいる今の暮らしは欠かせなかったように思う。何はなくとも、身体がある程度快適で、畑の美味しい野菜が食べられて、ちょっとした楽しみとちょっとした目標があれば、それで満足、欲張っても気分がわるくなるだけ…という暮らしと心境。「お前はどんなもんだ?」「お前は何ができる?」と値踏みしてくるヤツもいない(そういう相手がいると、つられて相手の価値感内でおっと言わせたくもなるものだけど)。

競争社会、競争的人間関係、というのは、そろそろ一端、幕が閉じていっている気もする。そういうのに厭き厭きした人も増えていることだろう。みんなの憧れの存在といわれるような人で、本当に幸せそうな人は少ないようにも思う。憧れたり、憧れられたり、そんなことで自分の人生をムダに揺すぶられるのは幸せへの遠回りであることが多いだろうと思う。