自分の気持ちがわからないことにははじまらない。
数年前、ぼくは明治・大正の時代に生きた作家、志賀直哉の小説を読んで、日本語の美しさを知った。と同時に、自分の心を見つめることの大切さを教わった。
和解 (志賀直哉 著:新潮文庫)
志賀直哉の小説では、自分の心の繊細な動きが描写されている。それを読んでいると、ぼく自身、自分の気持ちを前よりも敏感に感じ取れるようになった(神経質になりすぎて困ることもあったけれど)。
小説やエッセイを書きたくなったのも、志賀直哉の文章を読んだのがきっかけだった。小説を書くには、自分以外の人間の心の動きを想像する必要がある。自分のことしかわからないと、自分と同じような人物ばかり現れる小説しか書けない。とはいえ、まずは自分のことを理解することから始まる。他人を理解する際、自分の気持ちを基に想像することが多い。こんなことをされたらどう思うか、こう言われたらどう感じるか、こんな状況になったらどう考えるか。自分と似ている人間のことや、自分が既に経験したことと似たようなことを経験している人間のことは想像しやすいが、自分に未知の領域にいる人間のことを想像するのは難しい。
人間によって表現されたものを理解する場合にも、同じことがいえる。ぼくは毎日のように文章を書いているうちに、他人の文章にこめられた気持ちを前よりも読みとれるような気がするようになった。
真っ先に思い浮かんだのはわるい例だけど、ITや情報化時代に関するある本を読んで、知識としては面白そうなことも書かれていたけれど、「俺は最新の情報をこんなに知ってるんだぞ!」という気持ちばかり伝わってきて(直接は書かれていないけれど、文章のスタイルや行間から)、読み進める気になれなかった。感動的なストーリーにつくっているらしい小説を読んで、吐き気がしたこともあった。「感動させてやろう」という気持ちで書かれたのかもしれないと思った。
テクニックよりも気持ちが大事だと思う。
ぼくらは何のために他人の表現を見たりきいたりするのだろうか。楽しい気持ちになったり、前向きな気持ちになったり、幸せな人生を生きるためのヒントや材料にしたり、自分が望むように生きるために必要な情報を得たり・・・。あるいは、自分の現実から一時的に逃れたり、自分の気持ちを代弁してくれている表現に癒しを求めたり、という場合もあるだろう。テクニックだけでは、そういうものは与えられない。表現において、テクニックと気持ちは切り離せないが、気持ちが根本だと思う。
時々、ショッピングセンターなどに張り出された小学生の作文を読んで、気持ちの純粋さに感服することがある。自分の気持ちを素直に表現しつつ、こう書いたら読み手はこう感じるだろう、という作為のなさは、とても真似できないと思う。
ぼくは子どものような純粋さはとうの昔に失ってしまった気がするけれど、少なくとも、自分が前向きな気持ちでいられるときに表現活動をしたいと思っている。気持ちが暗くなっているときやひねくれているときには、何も書けない。気持ちは伝染する。自分の外に広げたくないと思う気持ちは、自分の中で解決し、広げていきたいと思う気持ちを表現していきたい。
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