正月、和歌山に帰省したとき、昔の写真を整理した。家族や親戚の写真がごちゃまぜになっていて、年代もバラバラだった。写真を時系列に並べてみてわかったのは、どうやら、幼稚園・保育園の頃はみんな生き生きしているけれど、小学校を卒業する頃には子どもの頃の輝きをだいぶ失っているということだった。
ぼくは幼稚園の頃からして楽しくなかった。遊具には興味がなく、子ども扱いしてくる歌も好きじゃなかった。クラスメイトと遊んだ記憶もほとんどない。先生のことは、怒られた記憶しかない。
小学校に入ると、勉強というものが始まった。嫌いではなかったけれど、好きでもなかった。授業中に自分の意見を発表するのが苦手で、仮病で休んだこともあった。町なかの学校で、放課後は友人たちとうろうろして、ヘドロが浮かぶ溝を飛び越えたり、高いところから飛び降りたりする遊びを考えて、その幅や高さを競っていたのをよく覚えている。5、6年生になると、さらに「やんちゃ」になり、廃墟になった水道局にエアガンを持って忍び込んで電球を割ったり、民家の屋根に登ったりして、しょっちゅう先生に怒られていた。
一日中イスに座って先生の話を聞かされて、子どもたちのエネルギーはあり余っていたのだろう。それをどう使えばいいのか、どう使うべきなのか教わることも自分で考えることもなく、何となく発散させていた。
人間というのは、自分が望むものをつくっていると生き生きしてくるように思う。
香川に移住してから、幼稚園・保育所や小学校低学年くらいの子どもたちと接する機会が増えた。見ていると、子どもたちは、話を聞いたり何かを見たりするよりも、自分で手を動かして何かをつくっているときが一番楽しそうに見える。自分が望むものをつくるために必要な知識を得るためには話も熱心に聞く。大人はまず、一通り知識を得てから行動しがちだが、子どもは最短距離を選ぶ。
幼稚園・保育所では、絵をかいたり工作したり、ものをつくることが多いけれど、小学校に入ると、途端に話を聞くばかりの勉強になる。小学校卒業の頃には生気が奪われてしまっているのは、そのせいもあるかもしれない。
最近は、そういう一般的な学校とは違う、いわゆる「オルタナティブスクール」などと呼ばれる学校のことをよく見聞きするようになってきた。幼稚園・保育所にしても、「森のようちえん」などが各地にできてきている。入学して卒業する頃には目の輝きがくすんでしまう学校ではなく、ますます輝きを増すような学校が増えればいいなと思う。
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