ゼロから自由に自己表現できなくても、今ある仕事の中で小さな自己表現をしていくこともできる。
「自己表現」というのはあいまいな言葉だけど、ここでは、「自分がつくりたい世界をつくるために何らかのカタチで表現していく」という意味で使っている。
ぼくの場合、たとえば、翻訳の仕事でも、小さな自己表現を行う余地がある。翻訳というのは、もとの原文を別の言語に置き換える作業なので、誰がやってもたいして変わらないと思う方もいるかもしれないけれど、訳者の個性や考えや価値観などがどうしても入ってくる。たとえば、女性のセリフの語尾をことごとく「~だわ」「~わよ」などにしたがる人もいれば、ぼくはなるべく男女どちらでも使うような表現にするのを好む。男はこういうもの、女はこういうもの、という窮屈な枠を取っ払いたい。だから例文をつくるようなときでも、普通は男性が登場することが多いようなところに女性を登場させ、女性がしそうなことを男性にさせる。
翻訳の場合、自分が共感できないような文章の翻訳を依頼されても断る、というのも小さな自己表現のひとつ。自分が望まない世界をつくるのに役立つ文章を広めるために手を貸したくはない。翻訳者は言語の伝達者であり、内容に関わらず頼まれたものを何でも完璧に仕上げるのが「プロ」だと思っている人もいるかもしれないけれど、そういう仕事をしていると心を奪われたロボットのようになってしまう。
手持ちの仕事の中で小さな自己表現をするといっても、時間に追われ、気持ちに余裕がなく、自由に考える暇もないと、なかなか難しい。締め切りまでに求められた最低限の成果をあげるので精一杯になってしまう。「どんな世界をつくりたいか」なんて考える時間も気力も残らない。そんな場合、まずは時間や気持ちの「余裕」をつくることに専念するのがいいかもしれない。毎日の生活を見直し、しなくても済むことを洗い出し、それらを少しずつ減らし、空白の時間をつくる。できた時間で、自分と向き合い、自分が本当にしたいことを少しずつでも始める・・。
誰かに要求された気の進まないことは、やればやるほど疲れてくるけれど、自分が望み、自分で決めたことは、小さなことでも、やっているうちに気力が戻ってくる。体が疲れているときは休むのがいいけれど、気持ちが疲れているときは、ぼーっとするよりもちょっと頑張って小さな生産活動(自己表現)をする方が元気になれることがある。
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by 硲 允(about me)
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