言語について思ったこと。


画像や動画は便利で役立つけれど、言葉も画像や動画を生み出すことができる。

当たり前のことですが、あるとき、そんなことを思いました。

言葉で話したり、書いたりすることで、受けての頭の中で静止画像や動画が生まれます。くっきりとして、細部まで描写される画像や動画を与えるには、それなりの言語能力が必要となります。「あの人の言うことはいつもよくわからんけど、あの人の話を聞くと、現場に自分がいたかのように風景が浮かんでくる」というようなことがあるものです。

自分が見たものをそのまま相手に伝えたいとき、写真やビデオはたしかに便利です。スマホをポケットから取り出してさっと写し、さっとアップロードしたり送ったりすれば、誰かに画像や動画で伝えることができます。受け手もラクに再生できます。

最近、ネットの世界では、文章があまり読まれなくなり、画像や動画を見ることを好む人が増えている、というような話をよく見聞きします。写真メインのインスタが人気なのも、それと一致しています。

ぼくもインスタを使っているし、いろんな写真をさっと見ることができるのは面白いし、画像や動画の使用を否定しようとは思いませんが、画像や動画ばかりに頼って人間の言語能力が衰えてしまっては悲しいとも思います。言語でないと伝えにくい内容もありますし、現実を目の前にして写し取る写真やビデオと違って、言語では目の前に存在しないものを人間の想像力によって瞬時につくりあげることができます(画像や動画でも、現実に存在しないものをつくりあげることができますが、暮らしの中で自然に身につけてきた言語のほうが、そういう用途においてはほとんどの人にとって身近で使いやすい手段ではないかと思います)。

言語能力というのは、日頃からしっかり使って鍛錬していないと、簡単に錆びついてくるものです。高校生だった頃、英語漬けになろうと、なるべく日本語を断って英語ばかり浴び続けていると、ある時、日本語の漫画を読むと意味が頭に全然入ってこなくてびっくりしたことがありました。日常生活で使っている日本語とはいえ、読み書きで英語ばかり使っていると、こんなに衰えてくるものだと驚き、他の科目の試験に悪影響が及ぶと危惧して勉強方法を変えたのを思い出しました。

日本語で本を読むにしても、しばらく本を読んでいない期間が続くと、読むスピードが落ちてくるものです。日本語を書く場合も同じで、ぼくはブログを毎日のように書き始めてから、文章を書くのが速くなり、翻訳の速度やメールの文章を書くのも速くなり、日々書き続ける効果を実感しました。

書くのと話すのはまたちょっと違う能力のようで、話すのも日々の実践が大事だと感じています。

文章に会話、写真、絵、動画、造形、音楽、身体表現…人間の表現手段にはいろいろあり、いろんな手段で自由に表現できれば楽しいだろうなぁと思いますが、ある程度、自分で満足できる域まで表現できるようになろうとすれば、それなりの鍛錬が必要になります。どんな表現手段によって、何を表現し、生み出していくかは、人それぞれの選択であり、人それぞれ、好みや得意なことが違っているからこそ、この世界を多様に彩っていける可能性があります。

そうしたなかで、言語というのは、ほとんどの人間が日々用いるものであり、思考のベースであり、コミュニケーションの基本的ツールでもあります。それを軽視しすぎて、鈍らせすぎると、結局はいろんな活動に支障が生じてくるのではないか、というようなことを思うことが増えてきましたが、人間、自然とバランスをとろうとするものなので、極端まで行ったときにはまた揺り戻しがあるのだろうとも思います。


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by 硲 允(about me)