文体や言語によって書ける内容が違ってくる。自分の言葉を大事にしたい



このブログは、最初の頃は「です・ます」調で書いていたけれど、最近、「だ・である」調に変えた。「です・ます」だと、誰かに語りかけるような感じになり、そういう書き方にちょっと疲れてきて、もっと好き勝手に書こうと思って切り替えた(同じ頃、記事を全部fadebookに投稿するのもやめた)。

「だ・である」調のほうが、自分が思ったことや考えたことをそのまま描写しやすいように思う。「です・ます」で書くとちょっと押しつけがましく感じられることがある。

「です・ます」は「話す」のに近い。思ったことを誰かに話すとき、相手に合わせて語り方を考える。ぼくは「です・ます」の文章を書きなれていなかったが、「です・ます」でブログを毎日のように書いているうちに、「話す」ときも話しやすくなってきた。

何を考えてどう思ったか、どんなときにどう思ったか・・・と、思ったことをそのまま描写するのは、自分の中の思いをそのまま取り出して言葉にして置いておく感じ。その場合は「だ・である」調のほうがやりやすい。ブログに書くということは、それによって何かを伝えたいわけだけど、語るように伝えるのではなく、見てくれる人に見てもらって何かの材料にしていただくイメージ。そういう文章は、こっちから手渡すようなものではないので、Facebookにも投稿しにくい。

文体や言語によって、書ける内容が違ってくる。

「だ・である」調子に切り替えたばかりの頃、書きながら、「これは<です・ます>では書けなかったなぁ」と思うことがよくあった。反対に、読んでくれている人に何かを「報告する」ような記事の場合、今でも「です・ます」を使う。両方でいろいろ書いてみて、ようやく使い分けられるようになった。
方言にしても、同じようなことがいえる。

ぼくは和歌山出身で、香川に移住してから、西の言葉で話すようになり、東京にいた頃よりも自由にしゃべれるようになった気がした。東京の言葉をまだ使いこなせていなかったらしい。

ちなみに、東京にいても和歌山弁でしゃべり続けてもいいわけで、親しい友人相手には和歌山弁で話していたけれど、和歌山弁を貫くのは居心地のわるい場面も多かった。通訳者になるのを目指していた時期もあったので、東京のアクセントで難なく話せるようにしなければ、という考えもあった(たとえばイギリス人の英語を和歌山弁に通訳するのは嫌がる人もいるかもしれない。それはそれで面白そうだけど)。

東京の言葉ですら、生まれ育った場所の同じ日本語に比べて話すのが不自由になるわけだから、外国語だとなおさらである。英語を使う仕事を10年以上してきたけれど、英語で「話す」機会は少ないので、いまだに必要な単語すらすらすらと出てこない。英語のリズムやノリは、和歌山弁に近いところがあるようで、東京にいた頃、ときどき英語で話すと、英語で話したほうが雄弁になるねと相方に言われたことがある。言葉によって口数まで変わるとは・・・。

その時々で、シーンや相手によって言葉をある程度使い分ける必要があるけれど、自分が子どもの頃から使い慣れた言葉は特に大事なものだという気がする。自分が「素(す)」に還れるような言葉。

日本語をなくして英語を世界共通語にするなんていう話は、英語を母語とする人にとっては便利なことかもしれないが、他の言語を母語とする人にはとんでもない話だと思う。世界中の人が同じ言葉でコミュニケーションできるのはいいことだと思うけれど、自国語を「廃止」する必要はない。言葉は、その地域・国で生きてきた人間とともにあり、その地域・国の文化、歴史、習慣、生き方などが宿っている。それを易々となくしてしまうわけにはいかない。

自分が一番自分らしくいられる言葉を大事にしたい。それとともに、誰かが大事にしている言葉も学び、言葉の垣根を越えていきたい。


【関連記事】
方言を捨てると、思考や感情の働きを制限することになる?