霊柩車を見たら親指を隠す? 迷信と思考の力について



子どもの頃、誰から教わったのか、霊柩車が通ったら親指をかくしておかないと親の死に目にあえなくなると恐れていた。

田辺市(和歌山県)に住んでいた小学生の頃、大きな道路沿いを自転車で走っていると、霊柩車が通り、ハンドルを握る親指を急いで隠したのを思い出す。

今は霊柩車を見ても親指を隠さなくなった。親の死に目にあえなくてもいいと思うようになったわけではなく、そんな迷信を信じなくなったから。

「思考が現実をつくる」というが、これもその例にあてはまると思う。親指を隠さずにいて平気でいれば何ともないが、親指を見られて親の死に目にあえないかもしれないと悲嘆にくれていると、本当にそうなってしまう可能性が高まるかもしれない。思考にはそういう力があるように思う。

「火に触ったら火傷する」というのはどうだろうか。「火に触っても平気だ」という余程の信念があればもしかすると平気かもしれないが、たいていは火傷してしまう。余程の信念がなくて物理的な力に負けそうだったら、無理せずに物理的に回避すればいいと思うけれど、霊柩車の場合のように、物理的な結果がよくわからなくて迷信らしい場合は、自分が望む通りの思考を心がけている。

迷信には、迷信が生まれた事情や背景があるので、それを考えてみるのも大事。相方は、「夜に爪を切ったら親の死に目にあえない」と言われたことがあるという。これは、昔、電気がなかったときに夜に爪を切るとケガをするおそれがあるからだと、おばあちゃんから教えてもらったらしい。

霊柩車の話に戻るが、ぼくはこの迷信のせいで、子どもの頃、霊柩車がこわい物に見えていた。霊柩車の運転手さんも、道行く人が次々に親指を隠したら、申し訳ない気分になるかもしれない・・・。ちなみに、ぼくは死んだら霊柩車に乗らず、畑や庭の土の中に埋めてもらって樹や植物の栄養になりたい。


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