「我思う、ゆえに我あり」、たしかな想いや考えを言葉にする安心感について。



デカルトの有名な言葉、「我思う、ゆえに我あり」。


一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。

文章を書いていると、自分の想っていることや考えていることがどうであれ、自分がそう想ったり考えたりしていることは確かだという一種の安心感があります。

そうした安心感を得るには、自分が本当に思っていることや感じていること、考えていることだけを書かねばなりません。そこからずれると、安心感が薄れていく。

例えば、「〜かもしれない」くらいにしか思っていないのに、文章をすっきりさせるために「〜だ」とすることはぼくにはできません(というか、したくありません)。自分の心が感じているニュアンスからずれたことを書くと、途端に安心感が失われます。

自分が本当に思ったり考えたりしたことなら何を書いても安心していられる、というわけではありません。それを言葉として発することで、読み手のなかで何が生じるのか、ということも同時に考えておかねばなりません。言うことと、言わないことは明確に意識して分ける。しかし、言うことについては、自分の思った通り、考えた通りに言う。そういう書き方です。

想ったことにしろ、考えたことにしろ、それは確かに自分のなかで生まれたもの。まだ言葉にすらなっていないものもありますが、それに言葉を与えていくときに感じる安心感。それを味わいたくて、今日もぼくは文章を書いているのかもしれません。