「人生は一度きり」といいます。人間は生まれ変わるとか、輪廻転生とかもいわれますが、再び人間に生まれ変わったとしても、ほとんどの人間は前世の記憶がないわけですから、自分で把握できる今の「自分」の一生というのは一度きりなのでしょう。
その一生をどう過ごすか。
ぼくは、自分の一生をムダに過ごしたくない、できるかぎり充実させたい、という想いが強いほうだと思います。一見穏やかな人間に見えるかもしれませんが、人生を左右する重要な局面では、自分が望む方向以外へは「テコでも動かない」ところがあります。他者からの親切なアドバイスはなるべく丁寧に受け止めたいと思っていますが、最終的に判断するのは自分自身です。
先ほど、この映像の一部を見ました。約3年前の2013年6月6日に行われた、 「第38回全国公害被害者総行動デー 」(東京電力・政府合同交渉)の様子。
こちらのブログで一部の書きおこしをしてくれています。
「俺らはわかってる。だから私は食べない」「自分の子供に食べさせたいと思わないでしょ?」「風評じゃない!根にも葉にもある」6/6東電・政府交渉(内容書き出し) - みんな楽しくHappy♡がいい♪
福島の専業農家の方の言葉が胸に響きました。
福島県は農作物は出荷の前に全部検査しないと出荷できません。
今は100ベクレル以下っていう事になっていますけれども、
農家は、計測している私は分かりますよ、これが何ベクレルあるって。
放射能は、要は100ベクレル以下だったら出荷できる訳ですから、
私は食べませんよ。
買って食べている人は、「放射能は無い」と思って買って食ってるっぺ。
どうなのよ。
俺らはわかってるんだよ。
罪の意識があるんだ、作ってたって。
自分は食わねぇけど、他人に食わせてるの。
どう思いますか?ちょっと答えて下さい。
農家たちの本音と、原発に関連する国の機関の官僚たちの建て前が交差する話し合い。
こういうのを見ていると、ぼくは自分が思ってもいない、誰かの意向を代弁するような仕事には絶対に就きたくない、と思えてきます。行政機関や会社などの組織に属していれば、多かれ少なかれ、そういうことをせざるを得ない状況がでてくるものでしょう。だからぼくは個人として立場で仕事をしています。
とはいえ、この世に何かを生み出したり、何らかの変化を与えたりするには、個人としてできることと、すでにある組織の中に入り込んでいってこそできることがあります。
要は、一度きりしかないこの人生で、自分が何をしたいか。何を生み出したいか。何を残したいか。
それを踏まえたうえで、組織の中で活動するのなら自分の人生を有意義なものにしていけると思いますが、世間の価値観や他者の期待や何となくなでいつの間にか組織に入り、いつの間にか自分以外の何ものかの意思や主張や考えを代弁しなければいけない毎日になっているとすれば、それは非常にもったいないことだとぼくには思えます。せっかく与えられたこの一生を浪費したくありません。
ぼくは会社で務めていた頃に何度か、そういう境遇に向かいそうになったことがありましたが、そう気づく度に、思い切って方向転換してきました。そのときは勇気がいるものの、何とかなるものです。
長年組織の中で生きていると、そこを離れても何とかなる、というのは想像しづらいのも何となくわかるような気がします。そこから抜け出したいと思っても、親や友人や知人や同僚などからの期待、世間体、お金のこと、家族の意向、次の仕事をどうするか…いろんな壁が立ちはだかっているでしょう。あらゆるものを一旦捨て去る覚悟が必要かもしれません。
組織の中で朝から晩まで働いて身も心も疲れきっていると、あらゆるものを一旦捨て去ってでも自分の一生をもっと充実させたい、という想いがなかなか沸いてこないのも想像できます。ぼくも疲れてくると、やけっぱちな気分になってくるので。
そういうときは、できることなら、一旦休息をとるのもいいかもしれません。
すべて捨て去ったところで、ゼロになってそれきりで終わることはないでしょう。その気になりさえすれば、新しい仲間ができ、新しい仕事も見つかり、世間の価値観にとらわれていた自分を笑い飛ばせるようになるかもしれません。失って二度と取り返せないものもあるかもしれませんが、その喪失感を乗り越えられる日が来るかもしれません。自分は自分の人生を、自分の意思でつくっていけるんだという喜びを感じられるようになるかもしれません。
もしぼくが、組織を離れて自分の人生をやり直すとすれば、地方(田舎)で再出発します。家賃や生活費が比較的安いので、最初はたいしてお金を稼げなくても、何とかやっていけます。家族の状態によっては、アルバイトだけでも暮らしていけます。遠くに移住してしまえば、それまでの人間関係ともある程度の距離を置けます。SNSは一旦やめて、ブログで自分の想いや再出発の過程を日々書き綴ります。
もっと多くの人が、誰かの意向を代弁し、誰かの目的のために行動する日々ではなく、自分が望むものをこの世に生み出していくために生きれば、世の中全体がもっと生きやすく、もっと楽しく、もっと美しいものになるのではないでしょうか。ぼくが日々書いている文章の根底には、そんな願いが込められているように思います。