東日本大震災の翌日に撮影 |
東日本大震災から5年が経ちました。
翌朝の東京は、それまでになかった雰囲気に包まれ、電車に乗り合わせた人たちは一様に神妙な表情をしていました。
原発事故が起きたのを知り、ネットで情報を追っていました。放射性物質が東京にも届いていることを知り、しばらくは外に一歩も出ませんでした。
原発がメルトダウンすれば、東京もどうなるかわからない…。どうすべきかわからないまま、相方と一緒に和歌山のぼくの実家に1週間ほど避難しました。
東京に戻った頃には、一見、東京は震災前に戻ったかのようでした。電車に乗り合わせた人たちも、もはや神妙な表情は消え、いつも通りに出勤する。
ぼくも少しずつ、もとの暮らしに戻っていきました。
しばらくは水道水を飲まず、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを使っていましたが、水道水に戻りました。マスクをせずに外を出歩くようになりました。放射能汚染の状況をネットで調べてもいまいち分からず、東京の野菜は安全だろうと思っていました。
福島に住み続けることを選んだ方のお話を聞いたり、原発や放射能に関する本を読んだり、ネットで調べたり、映画を観たり、少しずつ勉強し、関東も放射能汚染が深刻だと思うようになりましたが、自分が住んでいる府中市の辺りはそれほどでもないと思っていました。
2013年の夏、初めて自分で空間放射線量測定器を使って、東京のあちこちを計測してみました。東京に放射能があるのはわかっていましたが、実際に計ってみるとよりリアルに感じられ、その分、東京で暮らし続けるストレスも大きくなり、移住することを決意しました。もともと、いずれは東京を離れ、緑豊かな場所で暮らしたいと思っていましたが、それが早まりました。
そうと決めてからも、移住場所や家はすぐには決まらず、香川に移住してきたのは2014年の春になってからでした。それからもう2年が経ちます。
震災以降の5年間、あっという間だったように感じている人も、長い5年だったと感じている人もいるでしょう。今も仮設住宅で暮らしている方が17万人以上もおり、仮設住宅での5年間は長く、大変な日々だったに違いないと想像します。
震災で亡くなった方と、行方不明になっている方を合わせると、21,865人。
自分はたまたま運がよく、たいした被害にあわず、放射能の心配の少ない場所へ移住することができた人間の一人です。
東京を離れるとき、自分が安全な場所に逃れるだけでなく、困っている人たちのために何かしていかなければいけない、と思いました。ところが、震災や原発事故の被害で苦しんでいる人たちの助けになるようなことはほとんど何もできていません。ブログや身の回りの人たちとのお話で、少しずつ情報を伝えたり、ということくらい。
自分にできることをもっとしていきたいと、この節目に改めて思いました。