「正しい」という言葉は幅広い文脈で使われます。「今日は雨で遠足が中止になり、先生の予報は正しかった」など、事実として確かめられるような文脈ではそれほど違和感を持たない人が多いと思いますが、「人助けは正しい行いだ」となると、引っ掛かりを感じる人が増えるでしょう。「正しい」とはどういうことか、と定義を考えたくなります。この場合は、「人道的な」と言い換えてもいいと思いますが、こう言い換えたところで、「人の道とは何か?」と、やはりはっきりしないわけです。
価値観や考え方は人それぞれですが、人間として、こういう行為は好ましい(望ましい、尊敬に値する)というものもあれば、その逆の行為もあり、そういう判断は、多くの人の間で結構一致するわけです。ある程度一致するには一致するのですが、それを絶対的な基準であるかのように感じさせる「正しい」という言葉を使うと違和感が生じてしまうのだと思います。そのあたりの言葉の使い方に慎重になっている人は、他人が「正しい」という言葉を使うのを見聞きすると過敏に反応するわけです。
言葉を厳密に使うのはいいことだと思いますが、しかし、ぼくが気になるのは、「正しい」という言葉に拒否反応を持っている人の中には、自分が何を望むのかを判断することすら差し控えてしまっている人もいるように思えることです。
「客観的な正しさ」などというのは存在しないかもしれませんが、自分が何をよしとし、何を望み、この世で何を生み出したいか、ということをはっきりさせておかないと、どんどん自分の創造力が低下していってしまいます。
「客観的な正しさ」などはお構いなしに、自分の心と頭で、どんどん判断を下していけばいいのだと思います。「ジャッジするな」などと言う人もいますが、「他人を裁く(ジャッジする)」ことと、「判断すること」は違います。もっと自分の心と頭を自由に使って、「こういう考えは好き」「あの言葉は腹が立った」「あの人のやっていることには賛成出来ない」というようなことを遠慮なく思っていいのではないでしょうか。ただし、そこで終わるのではなく、では自分は何を望み、何を生み出したいのかを考え、イメージし、思いや言葉や行動を生み出していけばいいのだと思います。
世界を見渡し、他者の言葉や行動を見て判断しなければ、自分がこの世に何を生み出していきたいのかわかりません。「この世に正しいなんていうものはない」、とか、「ジャッジするな」などの言葉に惑わされて身動きがとれなくなっている人もいるのではないかと思いますが、「正しい」かどうかはさておき、自分がよしと思うものをはっきりさせ、自分の心と頭で判断し、自分の想いや言葉や行動で、自分の思い描く世界をつくっていけばいいのだと思います。