3.11後の自分の歩みと、自分への自信、「創造」の喜びについて

東日本大震災が起こるまで、ぼくの頭を支配していたのは、「文学」や「芸術」でした。

その1年くらい前から、作家の志賀直哉さんの作品に触発されて文学の面白さに目覚め、自分でもいずれは作品を書いていきたいと思い、まずは勉強ということで、毎日ひたすら本を読みつづけていました。

志賀直哉全集を日記や書簡以外読破したあとは、その友人であった武者小路実篤さんの全集を最初から読みはじめ、それと並行して、倉田百三全集もだいたい読み、一時はトルストイの作品もよく読んでいました。



小僧の神様・城の崎にて (志賀直哉)



真理先生 (武者小路実篤)



愛と認識との出発 (倉田百三)



芸術とはなにか (トルストイ)


机の上には文学書が積み上がり、寝ても冷めても頭の中は文学だったのですが、3.11以降は、こんな暮らしをしていていいものだろうかという疑問を感じるようになってきました。

今思うと、「文学」自体に問題があるのではなく、過去の文学の世界に没頭して現実の世界を自分が生きていなかった、というのが問題だったと思うのですが。

その後、自然農法を提唱した福岡正信さんの「無」の思想に触れることにより、「文学脳」がいったんリセットされ、何をどう考えたらいいのかすらよくわからない、というような状態で、その頃は文章を書く気にすらなれませんでした。

(最初に読んだのはこちら)

自然農法 わら一本の革命(福岡正信)


ぼくはおそらく他人の影響を受けやすいほうで、高校生の頃から、常に誰か、「憧れの存在」というがいたのですが、そういう存在がいなくなったのは、福岡正信さんの影響からある程度脱した頃だと思います。

ようやく、自分という存在を生きている心地がしてきた。

すると、あてにする「他人による指針」がなくなるので、憧れの存在のような位置を目指しているときとは、まったく違った境地に入ります。

自分の心で感じ、自分の頭で考え、判断し、行動していくしかないわけです。

「憧れの存在」がいると、しょっちゅうその人の言葉や姿に触れてエネルギーをもらうものですが、そういうのは「借り物のエネルギー」でしかないこともわかってきました。

そういう「借り物のエネルギー」から解き放たれた自分が、いかにちっぽけで、力のないことか。10代後半から20代前半にかけて、ぼくには「根拠のない自信」のようなものがありましが、だんだん自分に自信がなくなってきました。

でもそれは、「根拠のない自信」と自分でも言うくらいなので、たしかな自信ではなかったわけで、他人のエネルギーを借りた、借り物の自信だったのでしょう。ようやく、そのままの自分を見つめることができるようになったのかもしれません。

今はまた、自分に自信を取り戻してきました。それは、自分の専門的スキルや人格に対する自信ではなく、自分にも何かを「創造していく力」があるということに対する自信です。

「創造」というとちょっと大げさに聞こえますが、大それたことでなくてもいいわけです。ぼくの定義では、ブログの記事一本書くのも「創造」ですし、誰かに何かを話し、相手の何らかの感情や思考を生み出すことも「創造」。畑でちょっとした手をかけて野菜を育てるのも、運動して自分の身体を鍛えていくことも「創造」です。何を創造するかは、自分次第。

何もないところから、いきなり大きなものを創造するのは難しいですが、人間は誰しも、日々、創造の営みを行っています。それをどう認識するかで、日々の楽しみも、自分への自信も、変わってくるのではないかと思います。

ちなみに、最近はブログを書くのが楽しくて仕方ありませんが、小説も書き続けていきたいと考えています。