メディアに「中立性」を求めていません。それよりも「正体」を明らかにしてほしい。



大学生の頃、ぼくは社会のことをもっと理解したくて、新聞を定期購読し、当時は通訳の勉強もしていたので英字新聞も届けてもらって勉強しようとしていましたが、読んでも読んでもいまいち内容が頭に入ってきませんでした。

今振り返ると、新聞ではなく、個人の名前で書かれたものを読んで勉強しておけばよかったと思います。どうやらぼくは、個人の気持ちのこもっているものでなければ頭に入ってこないようです(ぼくだけではないと思いますが)。

新聞にも、社説や論説というものがありますが、社説は個人の意見ではありませんし、論説は個人名で出すとしても、新聞に掲載するとなるとある程度の制限がかかる場合があり、個人の想いを出し切れないところがある印象です。

新聞は「中立性」が大事なのだから、個人の想いを入れる場所ではない、と思われる方もいるかもしれませんが、報道やメディアに「中立」なんていうものは存在し得ないと思います。

その日に何についてのニュースを取り上げるか、という時点で、いろんな人間の意思や思惑が働いています。人間の意思や考えや価値観や感情に、「中立」なんていうものはあり得ません。

「中立」をデジタル大辞泉で引くと、こう書かれています。

対立するどちらの側にも味方しないこと。また、特定の思想や立場をとらず中間に立つこと。

日本の新聞の記事というのは、一見、「対立するどちらの側にも味方しない」ように見えて、読者をどちらかの側の味方につけようとするような書き方をしていることがよくあります。

昨日もこんな記事を書きました。

四国新聞の見出しが酷い。四国新幹線の賛否を問う合同世論調査。 - 珍妙雑記帖





自分たち新聞社は、あるいはこの記事を書いている記者の私はこう思う、と書いてくれていたら読者も自分で考えて判断しやすいのですが、「中立」に見せかけて読者をどちらかに導こうとするのはたちが悪いと思います。

その分野の事情に詳しかったり、ちょっと立ち止まって考えればわかることですが、新聞というのはちょっとした時間にさっと読むものなので、よほど注意しないと、どんどん自分の考えや価値観が、記事の導く方向へと流されてしまいます。

特に3.11以降は、新聞記事が「中立」だと思っている人も、メディアに「中立性」を求めている人も減っているような気がします。メディアというのは、自らの立場をはっきりさせ、読者の判断に役立つ情報を提供すべきだと思います。その際、「中立」を装いながら、どちらかの都合のいい記事を書くと、読者にとっては自分の判断に役立てにくい情報となってしまいます。

とにかく、「正体を現せ!」ということだと思います。正体を明らかにしないと、言うことを誰も信じてくれない時代になってきたと感じます。正体というのはつまり、自らがどういう者で、何を信じ、何を望んでいて、今までどういう発言や行動をしてきたか、というようなことです。それを隠して、「中立」に見える上っ面なことを言っていたら、誰も相手にしてくれなくなるでしょう。