「性善説か、性悪説、どっちを信じますか?」ときかれても…

By Chinese Artists, via Wikimedia Commons


「性善説」か、それとも「性悪説」か、どっちを信じるかと二者択一で問われることがありますが、その問い自体が的外れなのではないかと笹を刈りながら思いました。

「性善説」は孟子、「性悪説」は荀子が唱えたものらしいですが、詳しいことは知らないので、ひとまず辞書(デジタル大辞泉)の定義をご紹介します。

性善説:人間にはもともと善の端緒がそなわっており、それを発展させれば徳性にまで達することができるとする説。孟子が唱えた。

性悪説:人間の本性は悪であり、たゆみない努力・修養によって善の状態に達することができるとする説。荀子 (じゅんし) が唱えた。

「人間の本性は悪」だとは思わないので、この定義だけで考えると、二者択一でどっちかを選ばなければいけないとすればぼくは性善説を選びます。「人間にはもともと善の端緒がそなわっており」というのは、それはそうではないかと思います。

「善」と「悪」の定義も難しいところですが、それはさておき、人間というのは、「善」も「悪」もおこなえる存在です。

大事なのは、自分の外に解を求めず、自分が何を生み出すかに集中することではないかと思います。

「善」にしろ「悪」にしろ、自分のおこないの結果は自分に返ってきます。ある社会で共通認識されている「道徳」というのは、自分の思考や行動のヒントにはなりますが、解答にはなりません。結局、何が「善い」か、何が「悪い」かは、自分で判断するしかない…しかし、その結果には責任を持たなければならないし、自分のおこないの結果は自分にはね返ってくるので、自分が何をしたいかは、過去のおこないの結果から学んでいくことができます。

あの人は「性悪」とか、「根がいい」とか、そういう言葉もありますが、人間というのはいつだってその気になれば、根本的に変わっていける存在なのではないかと思います。