スマホを使わずにガラケーを使い続ける理由


「スマホ」や「ガラケー」という呼び名がそもそも好きではない。以前は最新型のケータイとか言って謳っていたのに、「スマホ」に買い替えさせたいからといって、それまでのケータイを時代遅れだとして侮辱するような呼び方をして、新しい機器のほうが「スマート」だと謳うのは、人間もケータイもバカにされているように感じる。

「ガラケー」と呼ばれても、ぼくはインターネットもEメールも使えない契約で、通信手段は電話とCメールに限られるケータイを使い続けている。

「スマホ」はたしかに便利だろうと思う。しかし、「便利さ」には用心が必要。

ぼくは自分の頭を怠けさせやすい方だと自覚しているので、「スマホ」なんていう賢い機械を持つと、ますます自分の頭を使わなくなりそうだという懸念がある。

ナビで移動すると、道に迷うことはほとんどなくなるが、方角を意識したり、道路や交差点の名前を覚えたり、通りの建物を覚えたり、一度通った道を覚えたり、直感に頼って道を選んだりすることが減る。機械が発する声に従って道を行けば、ぼうっとしていても目的地にたどりつけてしまい、それはそれで便利だけど、自分で考えたり計画したりする機会が奪われる。ぼくは香川に移住する前に、香川県全体の道路地図を入手し、香川県内で初めての場所に行くときは、必要なページのコピーだけ持って出かける。地図で最短距離を選んで自転車を走らせると、でこぼこの山道で、野犬に道をふさがれて立ち往生するようなこともあったけれど、そういうちょっとした冒険も面白い。ナビを使って車で通った道はあまり覚えていないが、地図を見ながら自転車や徒歩で移動した道はたいてい覚えている。

スマホを持っていると、ちょっとした手持ちぶさたな隙間時間に何となくインターネットに接続してしまいそう、という懸念もある。家でパソコン仕事をしていて飽きてきたり疲れてきたりすると、メールやSNSをチェックすることがよくあるが、そういう頭の使い方をしていると、意欲も集中力も衰えてくるように思う。目的をきちんと定め、今はそのために何をするかを決めて一つのことに集中しないと、だらだらと無駄な時間を過ごしてしまいやすい。

思考を深めたり、アイデアを思い付いたりするには、「空白の時間」が必要だと思う。自転車をこいでいるときや、草刈りをしているときなど、体を動かしつつ思考が自由になっているときに、何かを思い付くことが多い。体を動かしているときには「スマホ」を使いづらいが、体を動かさず、思考が自由になってぼーっといろいろ考えられるときにすぐに「スマホ」を取り出すクセを付けると、誰かが発信する情報を常に浴び続けることになり、自分の頭の中で思考を熟成させていく「ゆとり」が失われてしまう。

自分で考えるためには、「インプット」ばかりではなく「アウトプット」を前提として情報を処理していくことが重要だと思うが、「スマホ」は「アウトプット」よりも「インプット」向きの道具であり、余程の心がけがないと、インプット過多になってしまいやすい。たとえば、ネット上の記事を読み、内容を引用しながらSNSやブログで自分の考えや感想を書く場合、パソコンに比べて「スマホ」で行うほうがずいぶん手間がかかるのではないかと思う(やったことが無いけれど・・・)。
わからないことや知らないことをすぐに「スマホ」で調べる、というのも、便利なようで、自分で考えたり想像力を働かせたりする機会を失うことにもなる。うどん屋に並んでいた男女のカップルが、珍しい名前のメニューを見て、男性がすぐにスマホで調べ始め、お相手の女性が何も言わないけれど呆れたような顔をしていることがあった。「何だろう?」と話し合ったり、お店の人に聞いてみたりすれば、頭を働かせたりコミュニケーションが生まれたりするのに、答えだけわかってもあまり面白くないし、新しいものが生まれない。

「スマホ」を持っていても、道具に使われずにうまく付き合っているように見える人もいるけれど、主客逆転して「スマホ」の「とりこ」になってしまってそうな人もよく見かける。ぼくは後者のパターンに陥る危険性を感じるので、便利な道具はなるべく遠ざけることにしている。


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by 硲 允(about me)
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