学校給食の苦い思い出と、与える側の責任について。

先日、家でヤーコンとニンジンのきんぴらをつくった。ご飯と一緒に食べると見事な組み合わせで、その味から、小学校の給食のメニューで一番好きだった「三食どんぶり」を思い出した。

給食の三食どんぶりは、炒り卵とニンジンとインゲンの組み合わせで、甘辛くてご飯が進んだ。三食どんぶりのときはご飯が美味しく感じたが、ご飯単体で食べると不味くて、吐きそうになるくらいだった。吐きそうになるのを紛らわすために、田圃で稲穂が揺れるのを必死でイメージしながら食べていたのを思い出す。美しい風景を浮かべることで、美味しくない味を紛らわすという技をいつの間にか身につけた。

それにしても、どうすればあんなに不味いご飯ができるのだろうと不思議になるくらいである。巨大な電子ジャーで炊いたご飯を、プラスチックのケースに入れていたのが第一の原因だろう。プラスチックの箱の臭いがご飯に染み込み、プラスチックのしゃもじでよそうことでさらに強化される。それをプラスチックの茶碗によそうのだから、「プラスチック三重苦」ということになる。炊きあがった後、プラスチックの箱に閉じこめられたご飯は、蒸気が水滴となりご飯に滴り落ち、水っぽくぺちゃぺちゃになってしまうのも問題だろう。

ご飯に負けず劣らず、パンも不味かった。あんなに不味いパンは、一般的なお店ではありつけず、給食でのみ味わわされることとなる。その不味いパンに、ゲル化剤でぐにゃぐにゃし、合成着色料で真っ赤に染まったイチゴジャムを塗る。当時は添加物の危険性などを考えたこともなかったが、美味しくないのでジャムは付けないことが多かった。残したパンが、後になって机の中から発見されることもあった。

今振り返ると、毎日あんな給食を食べていたら、しょっちゅう体調を崩したり虫歯になったりするのも当然だと思う。ほとんどの子どもは、与えられたものを何の疑いもなく食べるのだから、与える側の責任は大きい。

ぼくは批判的精神のない子どもだったので、不味い給食を食べさせられることをイヤだとも思わなかった。吐きそうなほど不味いご飯を掃除の時間までに必死に食べ終えようとしながら、これは乗り越えなければならないチャレンジであり、こんな食事を与えている側に問題があるとは全く思いもしなかった。そもそも何の苦痛も感じなかったり、乗り越えるべきチャレンジだと思ってがんばる子どもよりも、その不当さを客観的に理解できるほど成熟した子どもほど、学校は生きづらい。不登校になる子どもに問題があるのではなく、不登校になる学校に問題がある場合のほうが圧倒的に多いと思う。というよりも、たとえ、子どものほうに問題があると思われる場合でも、その問題を解決しようとする姿勢や、いろんな特色を持った子どもたちを受け入れ、柔軟に対応する懐の広さが学校には必要だと思う。

先日、ヒノキの楽器を叩きに幼稚園に行った。帰り際の玄関から、教室にいる子どもたちが給食を食べているのが見えた。何人かと目が合ったので手を振ると、こっちを見ていた全員が純粋そのものという感じの笑顔で手を振り返してくれた。美味しい給食を食べさせてもらっていたのだとすればいいけれど。こういう子どもたちの姿を見るために、子どもたち全員が元気で楽しく生きていける世の中にするために、自分にできることを少しでもしていかなければ、と思う。


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by 硲 允(about me)
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