子どもの頃、話のネタを仕込むように言われてイヤだった話。


子どもの頃のこと。何の話だったか忘れたが、ある大人から、何か話を聞かされ、「話のネタに」知っておくといいと言われてイヤな気持ちになったのをなぜかよく覚えている。

誰かとの会話のために「ネタを仕込む」というのが、不自然な感じがしてイヤだった。相手が必要としているとか、相手が喜びそうだから話す、というのではなく、何となく会話で間をもたせるために用意をしておく、という感じがして、会話の相手にも失礼な気がした。

子どもの頃だったので、「話のネタ」がなくて困る、ということもなかったが、大人になっていろんな人との義理的な付き合いが生じてくると、そんなこともある程度は必要なのかもしれない、と今では思うので、今ならそれほどの嫌悪感は感じないかもしれない。とはいえ、ぼくは今でも「話のネタ」を仕込んでおくようなことは苦手で、話したいことが思い浮かばなければ黙っているほうだけど。

常に話の「ネタ」をストックしておき、誰と話しても、同じネタを同じ話し方で披露してくれる人がいる。ぼくの身近では、そういう人の場合、「間をもたせる」というよりも、会話で相手を楽しませようというサービス精神を感じ、見倣いたいと思うことが多い。「ネタを仕込む」といっても、どういう動機で、どういう心がけで行うかにもよるのだろう。

ブログを毎日更新することを自分に課しているので、ノートやパソコンには常に「ブログネタ」を書き出している。ブログの場合、相手が不特定多数だというのもあるのか、「ネタ」を仕込むことにあまり違和感を感じないが、ブログネタを得るために日々を生きるのは本末転倒なので、生きたいように生き、暮らしたいように暮らし、その結果、書きたいことが生まれてブログに書く、という順序を心がけている。いそがしいときや疲れているときは書くことに困ることもあるけれど、そんなときこそ、自分がどう生きたいのか、どう暮らしたいのか、という本質に立ち返ることで、書きたいことも生まれてくる。


by 硲 允(about me)
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