書くこと(つくること)は読み手(使い手)との共同作業だということ


一概に「文章を書く」と言っても、何のために書くかによって、その書き方は異なってくる。

ぼくは数年前に志賀直哉の小説を読んだのがきっかけで、自分の内面を見つめるために文章を書き始めた。

志賀直哉の小説は、作者の暮らしや生活の一部を題材に、気持ちの繊細な動きを描写している。


志賀直哉 [ちくま日本文学021]

そういう小説を読んでいると、読んでいるぼく自身、自分の気持ちの動きに前よりも敏感になった。いそがしいと、自分の気持ちをゆっくりと感じる余裕がなくなってくるが、その頃は会社勤めをやめて自由な時間がたくさんできた頃だったのでちょうどよかった。毎日のささいな出来事や印象に残った会話を、自分の気持ちとともにノートに書き留めていった。

最初の頃は、何でもないことを書くだけで気持ちが癒されるような感覚があった。今読み返すと、よくこんなことをわざわざ書いていたなぁという感じがするようなことも書いているけれど、当時は、とにかく何でも文章にするのが面白く、楽しかった。ノートに向かって何か書こうという態勢に入ると、積極的な気持ちになる。普段、受け身になりがちなぼくには大事なことらしい。

誰かに見せることを想定していないノートに数年間書き続けた頃、誰かに読んでもらえるところに書きたいという気持ちが生まれてきたので、最初は、デザインの仕事をしている弟につくってもらった「珍妙道中」という縦書きのサイトに載せていった。

誰かに読んでもらうとなると、意図しなくてもいつの間にか書き方が変わってくる。自分を見つめるために書く場合、その目的を果たせればいいので、だらだら書こうが、同じことを繰り返し書こうが問題ないけれど、自分だけ気持ちいいように書いていては、誰かに読んでもらうわけにはいかない文章が出来上がる。

誰かに読んでもらう場合、それを読んでくれた方が、どういう気持ちになり、何を思い、何を考え、どういう行動につながる可能性があるかを考えながら書く必要がある。そういう「抑制」をかけると面白くないと考え、読み手のことを考えずに自分の思うままに書いて「後は野となれ山となれ」というスタイルの方もいると思うが、ぼくは慎重な性質なので、なかなかそういう書き方はできないし、やろうとは思わない。

読み手のことを考えるといっても、そっちにばかり気が行って、自分の「書きたい衝動」のようなものがなくなってしまっては、これもまた読んでもらうに値しない文章になってしまう。まずは「書きたいこと」「伝えたいこと」ありきで、それをどう表現するか、というときに読み手のことを想像する、というのが自然な順番だと思う。

ブログをほぼ毎日更新し始めてから、1年半くらいになる。最初はほとんど読まれていなかったブログだけど、だんだん、定期的に読んでくれる方が増えてきて、時々感想をいただくこともあり、ありがたい。気ままに書いているようで、毎日更新するとなると、それなりにエネルギーが要る。読んでくれている方からの励みがあってこそ毎日書き続けることができているように思う。

誰かが読んでくれる場所に書く文章というのは、読み手がいてやっと成り立つものであり、読んでくれる方を想像しながら書くので、書く行為自体、読み手との共同作業だともいえる。

料理やクラフトなど、ものづくりはそういうものだと思う。食べる人、使う人がいてようやく完成する。相手への思いやりが足りなければ、一見完成していて美しく見えたとしても、長く愛用する気になれないことが多い。そして、上辺だけの見せかけは、人間の「感覚」によって早かれ遅かれ見破られる。

ちっぽけでもでこぼこでも、思いやりを忘れずにつくり続けたい。


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by 硲 允(about me)
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