「自分のために時間を使う」ということ。その主な妨げはお金中心のシステム


最近開催したワークショップに参加された方から、久しぶりに自分のために時間を使えた感じがした、という感想をいただいた。

だいぶ前だけど別のときに、自分の好きなことをして生きてきたように見える80代の方が、これからは自分のために時間を使っていこうと思う、と言われて驚いたことがあった。

「自分のために時間を使う」という言葉の意味は曖昧なようで、この言葉で表す概念は結構みんな共通しているように思う。「自分のために時間を使う」と言っても、必ずしも独りよがりになったり、自分の得だけを考えるわけではない。他人の思惑によって、自分が不本意なことをさせられたりせざるを得なかったりすることなく、自分が本当にしたいことに時間を使う、という意味合いでぼくは理解している。自分が本当にしたいことをするにも、いろんな人間関係が生じて気の進まないことが付きまとうものだけど、気が乗らないことでも、それが自分の本当にしたいことにつながっていると思えれば、自分のために時間を使っていると思えるかもしれない。ところが、他人の思惑を満たすだけで自分にとっては「不毛」に思えることに付き合っていると、自分のために時間を使っているとは思えなくなる。

現代社会において、自分のために時間を使えなくなる一番の理由は、経済的な理由だろうと思う。お金の必要なく、衣食住こと足りて、自分の好きな趣味も楽しめるとすれば、今の仕事を続ける人はどれくらいいるだろうか。お金を得るためにする仕事では、たいていの場合、「自分のために時間を使う」なんていうことは言ってられなくなる。では、お金を稼ぐための仕事は、誰のために時間を使っているのだろうか。上司のため? 社長のため? 株主のため? その仕事によって生まれた商品やサービスを利用する人のため? 時間を使ってもらった上司や社長や株主や「消費者」は幸せになっているのだろうか。お互いに誰かのために時間を使い合って、お互いを幸せにし合っているのならいいけれど、他人のために時間を使い合って、それでほとんどの人が大して幸せになっていないとしたら、ずいぶん悲しいし空しい。そのシステムの中で大量のお金を得ている一部の人たちも大して幸せになっているとは思えない。他人のために時間を使わざるを得ない状況に陥らせ、しかも誰も大して幸せにならないお金中心のシステムを変えていくべきだと思う。

そんなお金中心のシステムから抜け出すには、あまりお金のかからない暮らしをするか、一時は他人のために時間を使うことを我慢してたくさんのお金を一気に稼いでしまって、お金に縛られない暮らしに入るか。

ぼくはあまりお金のかからない暮らしをすることを選んだ。日本の地方で、家賃の安い家を借り、食べるものをある程度自分で育て、なるべく機械に頼らずに自分の手足を動かして暮らせば、一人当たり月に10万円あれば暮らしていける。切り詰めれば5万円で暮らせないこともない。ぼくの周りにも、自分の好きなことで仕事をつくりながら、最初はいろんなパートタイムの仕事をしながら暮らしている人が何人もいる。最低限のお金を得るために最初は気の進まない仕事もしなくてはならないけれど、自分が本当にしたい仕事の割合を少しずつ増やしていけば、だんだん「自分のために使う時間」が増えていく。

ぼくは学生の頃から、他人のために時間を費やして自分の人生が終わってしまうことをおそれていた。「まともに」就職しなかったり、経験も大してないのにいきなりフリーランスになったり、他人からはチャレンジングなことをしているように見られることもあるけれど、自分では、「自分のための時間」を奪われないための一番無難な道を選んできたように思う。ここ数年で、気の進まないことを少しずつ減らし、とくに東京から香川に移住してからは、「自分のために使う時間」が一気に増えた。

畑仕事の合間に庭でこの文章を書いている。おそらく東南アジアから近所の研修センターに有機農業の研修に来ている人たちが、隣の畑で草刈りをしている。庭先に腰を下ろして相方とスコーンを食べながら話しているところを興味深そうに見ていった。日本ではそんな暇そうな光景はあまり見かけないけれど、母国の風景に重なったのかもしれない。草刈り機の音がだんだん遠くなった。灰色のうろこ雲が流れてきて、鳥の鳴き声が心細くなってきた。久しぶりに雨が降るらしく、畑の野菜たちが一気に大きくなりそう。


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by 硲 允(about me)