等身大には美が宿る。「ありのまま」を認められるか?

今の自分のヘボさを認識し、受け入れ、笑い飛ばし、他人にも明らかにできるか、というのが結構重要だと思う。

「等身大」でいられるか。

無理せず等身大でいられるほうが心地よいし、等身大でいる相手と接するほうが心地よい。「等身大」にはある種の「美」が宿る。

時々、他人のインタビュー記事を書くことがあるが、ぼくは等身大の相手に「美」を感じるので、なるべくそのまま描きたいと考える。世間的なぼくにはどうでもいいと思えるような物差しを相手に当て、それによって相手を「よく」見せようとして書いているな、という記事を見かけることも多いが、そういうのはつまらない。そういうふうに描かれる(描く)ことに慣れていると、ぼくの描き方は「なんじゃこりゃ?」と感じることもあるようだ。もっと「よく」描いてくれたらよかったのに、と思うらしい。「そのままで十分素敵なのに」というか、「そのままが一番いいのに!」とぼくは思う。

「今の自分はこんなもんでっせ」と言える人間は強いし、信頼できる。今の自分よりも自分を大きく見せようとする人間は、信頼できない。

「自分はしょせん、こんなもん」と諦め、開き直って、そこから成長していこうとしないのも残念だけど、ひとまず今の自分をありのままに認めてしまえば、自分の中でおかしな混乱や矛盾が生じにくい。

ありのままの自分を認める、というのがなかなか難しいわけだけど。どういう自分が望ましいかを、他人に押し付けられてきた場合は特にそうかもしれない。「勉強できるあなたが好き」「いい子でいるあなたが好き」「かっこいいあなたが好き」「言うことを聞いてくれるあなたが好き」「誠実なあなたが好き」「強いあなたが好き」「優しいあなたが好き」…人は他人を条件付きで好意をよせ、自分好みの評価で判断する。それをやめさせるのはなかなか難しいが、「気にしない」ということは、自分の中だけのことであり、努力次第でできるはず。

「他人の好意なんていうのは、しょせん条件付き」と冷めきる必要もないと思うが、それはいつ変化してもおかしくないし、それは自分を絶対的に評価する尺度にはならない、と心得ておくことは大事かもしれない。

そんな「条件付きの好意」よりも、もっと大きな「愛」というものが存在するはずだと思う。それは「条件付きの好意」を寄せてくれる相手の中にもあるはずだし、自分の中にもあるはず。それは「条件付きの好意」よりもつかみどころのないものかもしれない。「条件付きの好意」に振り回されてしまいがちだが、振り回されていることを認識しつつ、それよりももっと大きく、隠れがちな「愛」に目を凝らしたい。


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by 硲 允(about me)
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