就活の思い出と、若者の労働力を搾取するための就活の仕組みについて。


大学生の頃、「就活」を少しだけした。

就活の時期が始まる頃、ぼくはプロの通訳者になることを目指していた。とはいえ、いきなり通訳の仕事ができるほどの実力がなかったので、まずは翻訳の仕事をして修行を積もうと思った(通訳は口頭で訳すが、翻訳は文字で訳す。どちらにもそれぞれの難しさがあるが、翻訳は調べながら時間をかけて訳せるので、英語と日本語の読み書きができて、ある程度の練習を積めばできるようになる)。

とはいえ、大学の新卒ですぐに翻訳の仕事ができることを明記している会社は、ネットで探し回っても3社くらいしか見当たらなかった。就職していざ仕事を始めると、翻訳の仕事ができる会社は他にいろいろあるだろうけれど、それは入ってみなければわからず、ぼくは絶対に翻訳の仕事をすることが約束されている会社にしか就職したくなかった。

とある会社に応募し、面接が進み、あとは社長面談を済ませば内定、というところまで進んだが、ネットで改めてその会社のことを調べてみると、どうも「ブラック」っぽいことがわかり、電話で断りの連絡をした(あっさりと受諾された)。社長面談の前の面接では、大阪の社員がわざわざ東京まで来てくれて話をした。翻訳のテストをさせられて、ぼくが一か所間違えると、学生相手に「フフン」という上から目線な態度で、今振り返っても、入らなくて正解だった。

その後、通訳からビジネスや経営コンサルティングに興味が移ったものの、コンサルティング会社の新卒応募は終わっていて、どうしようかと迷った。大卒の一般的な「就活」先といえば、就活の志望ランキングに載っているような大手企業。ぼくも多分に漏れず、そうした会社の中から、自分の興味に合った会社を選ぼうとした。昔から電化製品が好きだったので、家電メーカーかな、と思い、何社か申し込んでみた。

「就活」でまずイヤだったのが、スーツを着ること。塾のアルバイトでもスーツを着ていたが、堅苦しいし肩が凝るし、色も暗くて気分も下がるし、家に帰ったら一刻も早く脱ぎたくなった。

面接では、なるべく遜らないように心がけていた。それでなくても、社員の人たちは年齢の上で「上から目線」になりがち。なるべくこっちがエラそうにしているくらいでちょうどいいと思っていた。

とある大手家電メーカーの一次面接で、「入社したら何がしたいですか?」と質問された。そのメーカーでは、先に辞退した会社のように、業務内容が具体的に決まっていなくて、入ってみなければ何をさせられるかわからなかった。「何ができるかは入ってみないとわからないんですよね? たいていの会社はそうなってますから、入ってから、自分がしたいことができなくて辞めていく人も多いようですが、どう思いますか?」ときき返したら苦笑されていた。そのメーカーは、一次面接で「失格」になった。

内田樹さんの「街場の戦争論」を読んでいると、「やっぱりそんなことだったかー」と思うようなことが書かれていた。



できるだけ多くの求職者を、できるだけ短期間に、できるだけ狭い範囲に押し込む。それが新卒一括採用、一極集中という仕組みの意味です。実際の求職数の何十倍もの学生を競争の中に流し込む。当然、学生は採用試験にどんどん落ちます。100社受けて100社落ちるというようなことが当たり前になる。そうすると何が起きるか。学生の自己評価が下がる。自分は「使えない人間」なんだと思うようになる。そうなると、どこでもいいから拾ってくれるところで働くしかない、どんな待遇でも文句を言わない、どんな過酷な条件でも受け入れるしかないと思うようになる。半年は試用期間だと言われても、土日出勤だと言われても、残業代がつかないと言われても、海外長期出張があると言われても、「はい、やります」と答えるしかなくなる。
参考文献:『街場の戦争論』(内田樹 著)p.172

当時、そういう構造を理解していたわけではないけれど、雇う側が上、雇われる側が下、という考え方に拒否感を覚え、採用試験で落とされたところで自己評価を下げないようになるべく「攻めの姿勢」でいたのがよかったかもしれない。就活の時期になると、真新しいスーツを着て、電車に乗っているときからいつもより姿勢を正している「就活生」を見掛ける。「そんなに従順そうにせずに、こっちが選んでやる!くらいの気持ちでいないと…」と思えてくる。ただでさえ、どこにも就職できなかったらどうしよう、という不安がよぎるのに、よっぽど気を付けないと、応募先の相手がくもって見える。ぼくはどちらかというと自己過信のある学生だったが、自己評価が低い場合、この構造の罠にまんまとはめられてしまいやすいだろう。

今の就活の仕組みは企業側の採用コストや人材育成コストを最小化するように制度設計されている、と内田さんは述べる。

若者たちが適職を見出して、その才能を開花させて、自尊感情をもって幸福な生活を送れるようにするための仕組みではありません。もちろん、中には例外的に恵まれて適職を見出した人もいるかもしれませんけれど、大半はそうではない。就活を通じて自尊感情を高めたとか、自分の潜在可能性に気づいたという学生に僕は会ったことがありません。
参考文献:『街場の戦争論』(内田樹 著)p.173

今のところ、就活の仕組みは残念ながらそんなふうになっているようだけど、幸福な生活を送れるようにするためには、そうと知りつつその仕組みを上手く利用するか、別の方法をとるかして、自分の人生を自分で守るのが賢明だろう。

この本では、今の就職情報産業が就職情報を意図的にコントロールし、都市部の就職情報ばかり流し、地方の雇用状況について有用な情報を送っていないことも指摘されている(これも、一極集中によって能力の高い若者を安い賃金で雇うための仕組みになっている)。たしかに、東京で就活をしていて地方での就職はほとんど考えもしなかったが、地方でこんな仕事もある、というのを知っていればもっと選択肢に入ったと思う。

この本が書かれた時点では、地方における少人数の求人情報に特化してネットで情報提供しているサービスは(内田樹さんの聞くところでは)一つしかなかったようだけど、最近は、時々そういうサイトを見掛けるようになった。地方で地に足の着いた仕事をしたい若い人たちは確実に増えてきているように思うし、そういうニーズに対応したサービスも増えつつあるのだろう。どのようなサイトができてきているのか、調べてみたい。今のところ、大学の就活室に行ってもそういう働き方や仕事を紹介されることは少ないだろうけれど、これまでの就活の仕組みをつくってきた者たちが無視できないくらいの流れになるのは時間の問題ではないかと思う。


【関連記事】

by 硲 允(about me)
twitter (@HazamaMakoto