自力のなんたるかを見せてやれ!「自力」と「他力」と「エゴ」について


「自力」を放棄することほど危ういことはないと思う。

「自力」といっても、人によって何を意味するかが少しずつ異なると思うけれど、要は、自分で願いや、希望、目的、目標を定め、それに向かって自分の意志や、身体や心・精神を用いて行動していくこと。

人間に備わった「自力」こそ、人間の人間たるゆえん、ではないかと思う。

「人間なんてこの宇宙からすればちっぽけな存在で、自力なんて捨て去って、もっと大いなる存在に委ねたほうが万事うまくいく」と言う人もいるだろう。そう言う人自体、その「ちっぽけな存在」だという人間のうちの一人で、その言葉は、その一人の人間の身体を精神を通して出てきたものである。「これは私の言葉ではない。大いなる存在から受け取った言葉なのだ」と言うかもしれない。「あっそうですか」とぼくは思う。

何を信じるかは一人ひとりの人間の自由。「人間がちっぽけな存在で、大いなるものに委るのが最高の生き方だ」と信じるのもその人の自由。その考えを誰かに押し付けるのも、その人の自由。

他人の考えを受け入れ、信じるかどうかも、一人ひとりの人間の自由。とはいえ、自分の奥深くで考え、感じ、体感・経験によって深く理解していないことをそのまま取り入れるのは「盲信」である。

どこまでいけば理解したことになるのか、というのは難しい問題だ。自分の頭で考えて理解し、腑に落ち、身体を通してしっくりきた気になっていても、あとから考えれば「間違い」だった、ということもあり得る。人間の意志に完全な自由が許されているとすれば、人間の考えに絶対的な「正解」はないのだろうけれど、その考えが物理的な「事実」を基礎としているか、事実の全体ではなく一部だけを都合よく組み合わせていないか、という基準ですら満たしていないのであれば、それは「誤り」「間違い」だということになる。

この宇宙を生み出した存在・エネルギーのようなものがある、といわれる。「大いなるものに委ねる」というのは、それに委ねる、ということだろうか。そうした存在・エネルギーは「神」とも呼ばれる。「神に委ねる」ということだ。しかし、その「神」を明確に認識しているかどうか。自分が認識もできていないものに委ねるのは危険である。ところが、「神」なんて言われると、どうもすごいものに思えて、ひれ伏してすべて委ねなければならない、と思いやすいのだろう。

「神は偏在する」ともいわれる。「神は人間一人ひとりの中に存在する」ともいわれる。「草木、動物、土地、建物…あらゆるものに神が宿る」ともいわれる。この宇宙を生み出した、その始まりのエネルギーがすべてのものに宿っているとすれば、そういうことになるだろう。それを疑いの余地なく明確に感じられるか、どうか。それを体感した、と自分で言う人間もいる。そういう人間に対して、「それはよかったですね」と言うのはいいけれど、その人間に対してひれ伏し、その人間の言うことを盲目的に信じるとおかしなことになる。そのようなエネルギーが存在し、その人間が自分より先にそれを感じたとしても、それだけのこと。自分の中にも存在し、誰の中にも存在するのだから。

宇宙の根源的なエネルギー、「神」といわれるようなものを体感することを「悟り」と呼ぶのだろう。悟った人間が特別に偉いとは思わない。「悟った」あとで、その人間が何をするかで、その人間の真価が問われると思う(そもそも悟っていなくて「悟ったフリ」の人間も多いだろうけれど)。

「悟り」を実感した人間は、自分を特別視しがち。誰の中にも神が存在すると言いつつ、それを先に悟った自分にうぬぼれ、持ち上げられているうちに、その立場にあぐらをかき、自分ばかり偉くなった気になってしまう危険性がある。誰の中にも神が存在するというなら、それに気づかせてあげることができるか、というところで、その人間の真の能力が問われる。盲信者ばかり増やし、周りに悟った人間を増やせないとすれば、たとえ一度悟ったとしても、その程度だということになる。

盲信者を増やすのは、悟ったとする人間にまだ「エゴ」があるからかもしれない。自分以外の人間にひれ伏されたり、崇められたりして平気でいられるのは「エゴ」があるから。たまたま先に悟ったからといって、その立場にあぐらをかくのは「エゴ」があるから。自分よりも悟りを深めた人間が現れることをおそれるのは「エゴ」があるから。

まだ「エゴ」を捨てきれない人間を盲信するのは危険だ。反対に、「エゴ」を捨てきった人間は、他人から盲信されることを自分に許さないはず。

「自力」と「エゴ」は同じものではない。

学術的に「エゴ」がどう定義されているかは知らないが、要は、他人よりも自分に重きを置き、それを裏付けたり実現しようとするさまざまな心の働きのこと、のようにぼくはイメージしている。「利己主義」「利己心」とほぼ同義が使われることもある。一方で、「自我」「自尊心」という意味合いで使われることもあるので、ややこしくなる。「自我」は「自分を認識する心の働き」、「自尊心」は「自分を大事にする心」のようなものだと簡単に定義するならば、これらは捨て去るべきものではないと思う。「利己主義」や「利己心」はなるべくなら捨て去りたいと思うけれど。この辺の用語は、人によって使い方が違うし、概念を言葉によってどこで切り分けるか、というのも厳密に行うことはなかなか難しい。用語にとらわれず、まずはそれぞれの概念を自分の中で明確にし、それらを自分は必要とするか、捨て去りたいか、捨て去りたいがまだもっているか、といったことをはっきりさせていくことが大事だと思う。

「自力は捨て去るべきだ」と言いながら、少しばかり「自力」を手放した自分を他人よりも偉くなったと思い、「エゴ」を膨らませているような場合もある。「他力」や「大いなるもの」を笠に着て、「あなたも自力を捨て去るべきだ」と他人に押し付ける。こういう人はたいてい、宇宙の根源的なエネルギー、「神」といわれるようなものを感じられていないはず。他人の自力を捨てさせ、自分の思うように他人や世の中を動かそうとする誰かの「自力」の補完勢力にさせられている場合が多いだろう。

まずは「自力」を最大限に働かせようとすることが大事だと思う。そうすれば、それに応じて、いろいろな助けも得られる。他人が「自力」を使って助けてくれたり、人間以外の何かだと思えるようなものが力を貸してくれることもあるかもしれない。そうなったときに、「他力」や「大いなるもの」のようなものが自分自身で感じられるかもしれないが、「自力」をすっ飛ばして「他力」に頼るのは、行き先もわからずにバスに乗り込むようなものである。

他人をコントロールしようとする人間や勢力は、まず、他人の「自力」を放棄させようとする。それが手っ取り早い。相手の主電源を切って、自分好みの回路を埋め込んで動かすようなものである。そんな装置やワナが世の中のいろんな場所に仕込まれている。

そんな世の中を見ていると、「自力のなんたるかを見せてやれ!」と大声で言いたくなることも時々ある。


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by 硲 允(about me)
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