「自然農法」は「放ったらかし農法」とは違う


いんげんの支柱を立てた。

去年までは支柱を立てるのが面倒でつるなしいんげんばかり育てていたが、今年になって支柱を立てることを覚えた。

前までは、支柱を立てるのは邪道だという気すらしていた。「自然農法」を「放ったらかし農法」と勘違いしていた。

福岡正信さんの「自然農法 わら一本の革命」という本を読んで、人間のすることはムダばかり、という思想に触発された。



この本の内容を浅はかに理解したぼくは、いろんな種を混ぜた粘土団子を土のあるところに蒔けば、あとは何もしなくてもその土地にあった野菜が勝手に育ってくれるものと思っていたけれど、実際にやってみて、そんな単純なことではないとわかった。

砂漠のような土地に蒔けばうまくいくかもしれないが(福岡さんは砂漠の緑化に成功している)、日本のように草がどんどん伸びる場所では、粘土から野菜の種が発芽してもたいてい草に負けてしまう(生き残る場合もあるけれど)。

放っておいても草に負けずに育つ野菜ならば、日本のあちこちで既に野生化しているはず。そうでないということは、人間の手をかけないと育って子孫を残していくのが難しいということだろう。

福岡正信さんの「無〈3〉自然農法」という本を読むと、ほとんど手をかけずに米を育てる方法を確立するまでにかなり試行錯誤されたことがわかる。



福岡さんの方法では、お米の種籾も粘土団子で蒔く。一見簡単なようで、長年自然を観察して培った知識と感覚がないと難しい。蒔くタイミングなどを誤るとうまくいかないだろう。この方法で成功したという話を他で聞いたことがない。

自然農法といっても人によって定義がいろいろだけど、農薬や化学肥料を使わないのはもちろんのこと、必要以上に人為を加えず、自然に任せて作物を育てる、というのが共通する考えだと思う。

それを実現するには、自然を観察し、身をもって体験し、感じ、体得していく必要がある。土のこと、いろんな草花、虫や鳥や動物、風、太陽・・・自然界に存在するさまざまなものに親しみ、付き合い方を覚えていく必要がある。

土のあるところに何となく選んだ種を蒔いてもうまく育つとは限らない。その場所に自分が選んだ種を蒔くという行為自体が人為であり、そこがたまたま、その種が育つのに適した環境であれば自然と育つが、そうでなければ、引き続き人為を加えていく必要がある。ほとんど人間の手を加えずに作物を育てようと思えば、そういう環境をあらかじめ整える必要がある。

一概に野菜といっても、種類によって好む環境は異なる。野菜と対話しながら覚えていくのもいいけれど、全く知識がないところからだと時間がかかり過ぎる場合もあるので、先人の知識はありがたい。

最近は、「これならできる!自然菜園―耕さず草を生やして共育ち(竹内孝功 著)」という本のお世話になっている。




by 硲 允(about me)
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