「栗名月」に栗のはなし。3粒の栗ごはん

今日は「栗名月」。旧暦長月十三夜の月をそう呼ぶらしい。

今年は栗とあまり縁がなかった。山の栗は、落ちるとすぐにイノシシが食べて殻だけ残されている。街(町)の栗の木のほうが、実にありつける確率が高いけれど、今年はまちをぶらつく機会が少なかった。

ふらっと立ち寄った産直で、出始めの栗が十数個入って250円くらいだった。去年までの相場を忘れ、これが高いのか安いのかわからず、農薬を使っているかどうかもわからないし、とりあえず買わないでおいた。その後、他のお店で栗を見掛けると、同じくらいの量で400円くらいした。せこい感じがするけれど、それなら最初のお店で買っておけばよかったと思うので、なかなか買えないでいた。

ある日、森林活動の先輩の車に乗せてもらっているときに、「はざまさん、今年はもう栗ご飯食べましたか?」と聞かれた。「今年は栗はまだですねー」と答え、「そうですか」と、栗の話は一端それで終わったのだけど、保育園でヒノッキン(ヒノキの木琴)を叩いて、家まで送ってもらう途中、栗拾いに連れていってくれた。

最初に向かった場所は、栗の殻ばかりで実は全部拾われたあとだった。「2つでも3つでもあったらいいんやけどねー」と、ぼくよりも残念そうにされていた。つい最近、別の場所でお孫さんたちと栗拾いをされたらしく、そこにまだ残っているかもしれないということで、次の場所に向かった。落ち葉が積み重なった地面に目を凝らしていると、いがから外れて単体になった実が一つ見つかった。「ありました!」と報告すると、「よかった!」とぼくよりもうれしそうにされていた。結局、栗の実が3粒見つかり、栗拾いはめでたく終了した。

後日、朝食にご飯を炊く前に、包丁で栗の皮を剥いて、水に浸かったお米の上に入れた。それを見た相方は、「栗ご飯にするんやったら醤油で味付けする?」ときいたが、「3つだけやから!(笑)」ということで、いつも通り塩だけにした。


苦労して見つけた栗の味はとても濃厚だった。肥料をあげてそうになく、自力で育った栗の木だからだろうと思った。相方と一粒半ずついただいた。量よりも気持ちが大事だと思った。今年の栗はこれで満足した。


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by 硲 允(about me)
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