「社会人」という言葉にむかしから違和感があった。
一般的に、学生を卒業して生計を得るための仕事を始めると「社会人」として認定される。要は、「お金を稼ぐ仕事をしている人」ということだろうか。
お金を稼ぐ仕事をしていないと「社会」の「人」といえない「社会人」という言葉は、現代社会の価値観をよく表している。
学生でも、学外の大人や幅広い層の人たちと一緒にチームを組んで「社会」のいろんなプロジェクトに関わっている人もいる。それでも、学生である限りは「社会人」の括りには入れてもらえないだろう。
学校だって、小さな「社会」であり、もっと大きな「社会」の一部だと思うけれど、「学生 vs 社会人」の対比には、学生は「社会」で通用する一人前の人間になる前の修行中の段階だという見下したニュアンスを感じる。それもあって、学生の頃から「社会人」という言葉が好きじゃなかったのかもしれない。
辞書ではどう定義されているか、調べてみた。
しゃかいじん【社会人】
1) 社会の一員としての個人。
2) 実社会で活動する人。
(『広辞苑 第五版』より)
しゃかいじん【社会人】
1) 学生などに対し、職業をもって実社会で生活している人。「ー野球」
2) 社会の構成員としての個人。
(『明鏡国語辞典』より)
広辞苑の一つ目の定義と明鏡国語辞典の二つ目の定義が同じ意味。両方とも、もう一つの定義に「実社会」という言葉を使っていて、明鏡のほうではより具体的に「学生などに対し」「職業をもって」という対比と但し書きがついている。
「実社会」というのもヘンな言葉だ。辞書の定義によると、学生は「実社会」で生きていないというように読みとれる。「実社会」を広辞苑で引くと、「(美化されたり観念的に考えられたりしたのではない)現実の社会。実世間。」と書かれている。学校だって現実の「小さな社会」だし、学生だって学校だけにいるわけではない。
「社会人」という言葉についてつらつらと考察してきたけれど、こんなことを書いているのは、「社会人」とみなされる前の段階の人間が未熟で未完成な社会人になりきれていない人間だとみなされているのが気に入らないからである。
一人前の「社会人」になってようやく世のため人のためのことができるようになるかというと、残念ながら現代社会ではそうはなっていない。むしろ、「社会人」になるというのは、純粋さや真心や夢や希望を失い、世のため人のためになるどころか世の害、人の害になるようなことを国の経済や家計を言い訳に平気でできるような人間になることを意味することが多いのではないか。(もちろんそうではない「社会人」もいるけれど)
言葉には、その言葉を使ってきた人間の文化や価値観が表れている。翻訳の仕事をしていると、言葉の定義や語源について改めて考えさせられることが多い。考えた結果、一般的にはよく使われるけれど自分では使わなくなった言葉がいろいろある。
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