暇を嘆くのは「つくる」喜びを知らないから



小学生の頃、ぼくはよく、暇だ暇だと言っていた。新しく買ってもらったテレビゲームに飽きるとそう言っていた。

今思うと、暇を喜ぶのではなく暇を嘆くのは、与えられた受け身の遊びしか知らなかったからだ。

子どもの頃にしていた遊びと言えば、テレビゲームのほかに、マンガを読んだりアニメを見たり、ミニ四駆、ハイパーヨーヨー、バッケン(メンコの四角いやつ)・・・。ヨーヨーやバッケンは体の感覚を鍛えるのに役だったかもしれないけれど、テレビゲームほどは夢中になれなかった(バッケンは負けたら奪われるのがイヤですぐにやめた)。

一番時間を費やしたのはテレビゲームだった。テレビゲームはクリアしたりずっとやり続けて飽きるとすぐに次のソフトが欲しくなる。与えられた箱の中で手と頭の一部を動かして楽しむことはできるけれど、箱から外へは出られない。箱の中に用意されたものに飽きたら、そこから出て自分でつくり始めるのではなく、誰かが用意してくれた別の箱を求め始める。その箱の中には、親がしんどい思いをして稼いだお金や、子どもの頃の貴重な時間やエネルギーを費やす価値のあるものが入っているだろうか。今となって、ぼくにはそうは思えないので、しょっちゅうゲームの悪口を書いている。

テレビゲームをする時間があったら、絵をかいたり、楽器を練習したり、工作したり、自分で何かをつくることをしておけばよかったと思う。楽器といえば幼稚園の頃から小学校4年生くらいまでピアノを習っていた。最初は好きで始めたけれど、だんだん練習が「宿題」のようになっていって、あまり楽しめていなかった。新聞に挟まれてくるチラシで裏の白いものを探してよく絵をかいていたけれど、「暇つぶし」の落書き程度だった。

自分でつくり出す楽しみというのは、ラクに、簡単には得られない。ときに苦しいことや面倒なことを乗り越えて、自分の満足いく作品ができてこそ喜びが味わえる。その点、テレビゲームは、適度な負荷と簡単に得られる達成感を微妙なさじ加減で用意して、夢中になってもらえるように巧みにつくっているように思える。

小学校にいた頃、工作や調理実習の授業はみんな好きそうだった。でも、家に帰ってまで工作や料理をしようという人はあまり(ほとんど)いない。図工の時間に絵をかくのが好きでも、家に帰ってから自由な時間にかこう、ということにはなかなかならない。決められた時間割の中でやるものだといつの間にか刷り込まれていて、そういうことは思いもしなかった。

暇だ暇だ、と嘆いていたのは、自分でつくる楽しみをしらなければ、自分を楽しませる発想にも乏しかった。暇な時間を活用して楽しむ方法はいくらでもあるけれど、誰かが楽しみを与えてくれるのをアテにしていた。

子どもの頃に何かをつくり出す喜びを知れば、一生、「暇を嘆く暇」がなくなる。小学校の頃に絵をかくのが好きだったクラスメイトは今も絵をかいている。東京の府中で暮らしていたアパートの近所に、ギター好きの小学生がいて、ギターを背負って登校し、家からいつもエレキギターの生気に満ちた音が道路まで聞こえてきていた。その小学生のお父さんも一緒に弾いているようだった。

「ものを買わせてなんぼ」の世の中では、油断すると受け身で消費する刹那的な楽しみに走りがちだけど、小さい頃に自分でつくる喜びを見つけるきっかけやヒントを与えることは、こんな世の中をつくってきた大人にできる小さな罪滅ぼしの一つかもしれない。そのためにはまず、自分自身がつくる喜びを知る必要がある。


【関連記事】

by 硲 允(about me)
twitter (@HazamaMakoto