惰性とスマホ。「自分で考える時間」を奪われないために・・・


久しぶりに高松の街に出ると、人がいるところではたいていどこでも視界に「スマホ」が飛び込んでくる。

歩きながら友だちと話している合間にスマホの画面でSNSのタイムラインを流し読みしているのがたまたま目に入った。「目の前にいる友だちに集中しよらよ!」と思わず心の中でつっこんでしまったが、横にいる友だちは気をわるくしなかったのだろうか・・・。

スマホがあればちょっとした隙間時間の暇つぶしが簡単にできるので、SNSを見たりゲームをしたり買い物サイトをのぞいたりする人が多いようだ。

スマホのせいで、「自分で考える時間」が奪われているように見える。SNSで他人の投稿を読んだり、ゲームの攻略法をあみ出したり、何を買おうか検討するときにも「考えて」いるわけだけど、「誰かから与えられたものの範囲の中で半ば流されながら」である。そこには喜びは少ない。たいてい、スマホの画面をのぞき込んでいる人は、つまらなさそうな顔をしている(ニヤニヤしている人もいるけど)。

スマホの画面で細切れな情報を浴び続けていると、もっと楽しく毎日を過ごすにはどうすればいいのか、自分の気持ちとゆっくり向き合って考える暇もなく時間が過ぎていってしまう。自分で考えるよりも、文字を読んだり写真や動画を見たりするほうがラクなので、惰性に任せるとどうしてもラクな方向にいってしまう。

惰性に任せるか、ちょっとがんばって自分がこれだと思うことをするか、その分かれ道のどっちを選ぶか。その積み重ねによって、自分の人生がどれだけ充実したものになるかがずいぶん違ってくるように思う。

せっかくの人生をムダにしないためには、実はどうでもよかったり大事ではないと思えるものをシャットアウトする必要がある。街に出ると、気を散らすどうでもいいものが溢れすぎている。歩いているだけで文字情報が次々と目に耳に飛び込んでくる。

自分が本当に必要としていることは何だろうか。そんなことをゆっくりと考える暇を与えてくれない。自分の気持ちと向き合い、本当に大事なことについてじっくりと考えるには、余計な情報が飛び込んでこない場所に逃げ込む必要がある。

家に帰って、玄関の戸を開けようとしたら、庭木にとまっていた鳥がひと声、「おかえり」と言うかのような鳴き声を聞かせてくれてようやくほっとした。高松の街なかとうちとでは、違う時間が流れている。

ちなみに、ぼくは一度スマホ(iPhone)を買おうとしたことがあるけれど、最初にケータイショップに訪れたときは売り切れで、2回目は身分証明書を持っていくのを忘れ(3回目もこういうことがあったような)、これは買わないほうがいいという何かのメッセージかもしれないと思い、買うのをやめた。惰性に負けやすいぼくは、買わないで正解だったと思う。


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by 硲 允(about me)
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