植物にも感情がある? 動物や野菜を殺して食べることについて


植物にも感情があると考える科学者が増えてきているというニュースを読んだ。


お店の野菜売場で、買い物している人たちが野菜を放り投げるようにして戻すのを見かけて野菜を気の毒に思うことがよくある。植物に気持ちがあると思っている人はまだ少数派かもしれない。

そういうぼくも、自分で野菜を育て始めるまで、野菜たちに対して無慈悲だった。食べ遅れて腐らせてしまっても、もったいないとしか思わず、野菜たちに申し訳ないとはほとんど思わなかった。植物が生きていて感情をもっていると思っていなければ、そういう発想すら出てこない。

自分で種をまいて野菜の成長を見守っていると、野菜の気持ちがわかるようになってくる。ご機嫌な様子のこともあれば、元気のないときもある。丁寧に見守って気持ちをかけていれば、たいてい順調に育つ。人間と同じで「無視」が一番堪えるのか、種を蒔いたのに蒔いたことを忘れて放置していると、草の中で小さくなって消えてしまうことが多い(草刈りが間に合わなくても、想いをかけている野菜は草に負けずに育ってくれることもよくある)。

ぼくは普段、基本的にお肉は食べない暮らしをしていて、その理由のひとつに動物を殺したくない、ということがある。「そんなこと言って、植物は殺しているじゃないか、この偽善者め!」と思う人もいるかもしれないけれど、植物は思いやりをもっていただけば悲しんでいるようにはぼくには感じられない。「ありがという」という気持ちでやさしく摘んで感謝して味わい、野菜から得たエネルギーを地球を元気にするようなことに使っていけば植物に恨まれるようなことはないような気がする。

ぼくは動物の肉を食べるために動物を自分で殺したことがないけれど、動物の肉を食べるために植物に対するのと同じくらいの思いやりをもってしても、 動物は悲しむのではないかと想像する。「お前が感じられていないだけで、植物も悲しんでいるんだ!」と言う人もいるかもしれないけれど、自分で種をまいた野菜の場合、食べずに放置しているほうがむしろ寂しそうに見える。とはいえ、食べきれないほど一気に収穫したり、無意味に引っこ抜いたり傷つけたりすれば植物も悲しむものだと思う。自分の役割を果たして命を全うすれば満足し、そうできなければネガティブな感情を抱くのは人間も植物も同じかもしれない。

植物どころか、モノにも感情や気持ちのようなものはあるかもしれない。最近は減ったけれど、昔、モノに対するぼくの粗雑な扱い方を見て相方はよく「かわいそう」と嘆いた。同じときに同じモノを買っても、相方に大事に扱われたモノは長持ちし、ぼくに乱雑に扱われたモノは失踪するか早く力尽きてしまうこともよくあった。今ではぼくも相方の影響でモノに名前を付けるほどになった。石油ストーブのコロちゃん、草刈り機のマキちゃん、インパクトドライバーのみどり。でも、ケータイのシロは最近、愛情不足で失踪した(と思ったら、机の書類の下にすねて隠れていた)。

相手が人間の場合も、動物、植物、あるいはモノ、自分が発した気持ちは自分に返ってくるものだと思う。怒ってばかりいると怒りが返ってきてロクな目に遭わないけれど、誰にでも何にでも思いやりをもって接していれば、心地よく人生(「動物生」「植物生」「モノ生」も)が回っていくのではないかと思う。


【関連記事】
自分が嫌なことを誰かがした結果生まれたものを消費することについて。


by 硲 允(about me)
twitter (@HazamaMakoto