ぼくは他人に怒りを示すことはめったにないけれど、中学生の頃、クラスメイトにスピッツの悪口を言われて、腹が立って教室のイスを投げつけたことがある。
自分が好きなモノや人を誰かに好きになってもらえなくてもどかしく思ったり、誰かが好きなモノや人を好きになれなくて「何がいいんだろう?」と思ったりすることは誰にでもあると思う。
自分が好きなものに難色を示されると自分まで否定されたように感じてしまいがち。特にその傾向が強い相手の場合、相手の好きなものを好きじゃないと言うだけで人間関係にヒビが入ってしまうようなこともある。
基本的に好みは人それぞれでいいと思う。でも、時には相手の好きなモノ(人)を「好きじゃない」と伝えざるを得ないときもある。たとえば、何かに誘われたときなど。1回限りなら、相手の気持ちを害しないようにウソも方便で別の理由を言うこともあるけれど、今後も何回も誘ってくれそうなときや、そのモノ(人)と近づくことで相手に悪影響があったり不利益を被ったりしそうだと思ったときは、なるべく率直に伝えることにしている。
あるとき、友人の尊敬する人がぼくには誠実な人間には思えないことがあり、その印象や具体的な理由を話した。友人はちょっとムッとしてしまったようだった。しかし、表向き「いいね」「いいね」と言いながら陰で「だまされてるんちがうん?」と言っているよりは正直に言ってよかったと思う。
作家の志賀直哉か、その友人の武者小路実篤か、どちらの本で読んだか忘れてしまったが、二人や他の作家仲間らとの会話で、誰かが好きな作品を不用意に批判するとケンカのもとになるので「(誰々)の好きそうなものだ」という一言で済ませるようにしている、というようなことが書かれていたのを思い出した。誰が何と言おうと自分は自分、というスタイルを貫いていた彼らでさえ、自分の好きなものを否定されるのは癇に障ったのだろう。
ぼくはさすがに今はスピッツの悪口を言われてもイスを投げつけたりしないが、バカにするような感じで言われたら心の中でイスを投げつけるくらい腹を立てるかもしれない。
誰かが好きなモノ(人)を何も考えず無意味に否定するのはよくないと思う。とはいえ、そのモノ(人)を好きでいることで相手や誰かにマイナスの影響があるのではないかと思ったときは、できる限り言い方に気を付けたうえで自分の意見や想いを率直に伝えることも必要だろう。自分がそう思ったからといって、そのモノ(人)が本当に用心すべきかどうかはわからないが、そう伝えることで、相手も改めて考えてみるきっかけになる。他人のいいところばかり見てよくないところが目に入りにくい人は、実害を被るまで相手の危険性に気付きにくい。ぼくもこどもの頃から平和な環境でのほほんと生きてきたのであまりに無防備で、こどもの頃から困難な環境で育ち批判的精神を育んできた相方の助言に救われてきた。
誰のことも手放しで好きになれて誰とでも仲良くなれる世界で生きたいものだが、今の世の中、ある程度の警戒心と判断力がないと、不純な意図をもったヤツのいいようにされる危険がある。
【関連記事】
- 自分と意見の違う相手を攻撃する人から「表現の自由」を奪われないために
- 子どもの頃から「批判精神」を養っていける場や機会をつくるには?
- 「人脈構築」という言葉に嫌悪感を感じるのはなぜか。
- 他人の好意を断るということ
by 硲 允(about me)
twitter (@HazamaMakoto)