自分にかけられた「制限」と向き合うことについて。



相方と久しぶりにラーメンを食べながら、「人間、バランスが大事」という話になった。

インプットに偏りすぎても、社会運動に傾倒しすぎても、芸術至上主義になっても、人間としてのバランスが崩れてくる。「暮らし」にこだわりすぎても、衣食住が目的化して、もっと大きな目的を見失ってしまうかもしれない。

たとえば「家庭のこと」に専念することで、自分の家庭外の世界や政治のことに無関心となる場合もある。しかし、自分の家庭と、外の世界や政治は密接につながっている。

「人間、外部から自分にかけられた制限を見て見ぬふりをしてしまいやすい」。そう思った。

ちょっと油断すると、身体も頭脳もラクをして怠けさせてしまいがち。自分が決めた領域以外のことは、自分が扱う範疇にないものとし、見て見ぬふりをしていれば頭を使わなくて済むので、興味・関心の範囲を自分で制限してしまいやすい。

しかし、自分で決めた領域外のことを見て見ぬふりすることで、結局、実は自分の領域や自分の人生にかけられた制限に甘んじることにもなる。

たとえば、自分は「家庭内のこと」に専念すると決めたとする。家庭内では自分のほぼ完全な自由があるように見えて、実は家庭外による制限の中での自由に過ぎない。

特に街で暮らしている場合、「買う」ことが自由の範囲を大きく決める。お金が無ければ住む場所も得られないし、その家にしても、建築上の法律やさまざまな規制、ルールに制限を受けた造りになっている。買い物に行くにしても、その移動手段は、家庭外の事情で生み出されたものに限られる。地球を汚すのは嫌だから排気ガスを出さない車に乗りたいと思っても、現在の自動車市場で一般的なのはガソリン車。水素カーも走り始めたが、現在市場で流通している水素は化石燃料を使用してつくっているようだ。「R水素」という技術もあるが、まだ市場には出回っていない。食料やモノを買う場合、店や市場に用意されたものの中から選ぶしかない。

特に日本のような国の場合、家庭内で許された自由だけに甘んじていても、お金があればある程度快適な暮らしを営めるかもしれないが、もっと大きな自由を得たければ、家庭の領域外にも働きかけていく必要がある。「働きかける」といっても、そんなに大げさなことではなく、「何を買うか」、ということだけでも、社会に対する自分の意志表明となる。ということは、「家庭内」に自分の領域を制限したとしても、知らず知らずのうちに家庭外にも働きかけているわけだけど、「意識的」に行わないと、結局、売り手のマーケティングに踊らされているだけ、ということになりやすい。

山の中でほぼ完全に自給自足の暮らしをしているような場合でも、外部から完全に隔離された世界で生きられるわけではない。大気に乗ってどこから危険な物質が飛来するかわからないし、何らかの権力によっていきなり立ち退きを要求されないとも限らない。

自分が活動できる領域内での自由を享受しつつ、外部による制限を取っ払うための取り組みも同時にしていかなければ、自分に許された自由がいつの間にかずいぶん狭められていた、ということになりかねない。そういう制限というのは、地球上の人間全員が自由に生きるために仕方なく設けられた制限、というよりも、一部の人間が自分だけ得をしようとして生み出された制限である場合が多いように思う。

自分が自分自身にかけた制限。他者からかけられている制限。集団によって生み出された制限や、この世の中のシステムによる制限・・・。自由を求めるなら、さまざまな種類の制限と向き合い、変えていくことが必要となる。


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by 硲 允(about me)
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