「自分の思想に忠実に生きる」ことについて。

『ホセ・ムヒカと過ごした8日間―世界でいちばん貧しい大統領が見た日本』(くさば よしみ 著)という本によると、ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領は、人間は自分の思想に忠実に生きないといけないという話をよくされるとのこと。



そうしなければ、本来は自分の考えや信念に基づいて生きるべきなのに、「生き方が自分の思想を左右してしまう」と、ムヒカ大統領をずっと取材してきたジャーナリストのダンサ氏は説明している。

これと同じようなことを読んだり聞いたりしたことがあるかもしれないけれど、何年も獄中で思索していたムヒカ大統領が語ると重みが違う。思わず付箋を貼った。

政治家にはそういう人が多いと言う。日本でも同じこと。立場や状況によって考えをころころ変えても堂々と振る舞っていられるのは不思議なくらいだ。そもそも「思想」と呼べるようなものを持ってそうな政治家は今の日本ではごく一部に見える。

本でこのくだりを読んで、身近な例では、「食事についての考え」を思い浮かべた。

「農薬や添加物を避け、菜食中心の食事をすべきだ」と考え、基本的にはそういう食事を実践しても、誰かと一緒に外食するような場面では、普段、自分一人でいるときに好んで食べないようなメニューしか選択肢にないこともある。そういうとき、「他人との付き合いではどんな食事でも文句を言わずに楽しくいただくべきだ」と考える傾向があるように思う。「他人に合わせられること」を美徳だと考えている場合は特に。しかし、この例外的な場面での考えは、「農薬や添加物を避け、菜食中心の食事をすべきだ」という基本的な考えと矛盾している。

こうした例外的な場面では、そうした例外的な考えを持ち出したほうがその場を楽しめるかもしれない。しかし、自分の中で矛盾した考えを持っている人間は攻撃的にもなりやすいように思う。自分が不本意ながら何かをしている人間は、同じことを他人にも押しつけやすい傾向が見られる。「こういうときは他の人に合わせるのが礼儀だし、そのほうがかっこいい」と考え、普段の自分の考えを無理矢理押し殺そうとするか、あるいは、「普段の自分の方針とは合わないけれど、今は仕方がないので目の前の食事をありがたくいただいて楽しもう」と考えか、その違いは大きい。後者の場合も、自分の考えを忠実に実行していないことには変わりがないけれど、他人との関わりの中で、自分の食に関する考えを忠実に実行しようとすると、自分の考えをよほど理解してくれる人としかつき合えなくなる。そうした中でも自分の食に関する考えを妥協せず常に実行しようとして、他人との断絶を引き起こし、結局は自分の考え自体を変えてしまうケースもある。

自分の思想や考えを忠実に実行に移すことにあまり忠実になりすぎても長続きしない場合があるし、自分で簡単に覆してしまうようでは自信を失うし他人からの信頼も得られない。枝葉末節ではある程度妥協しつつも、根本的なところは譲らない、というバランス感覚も必要かもしれない。


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by 硲 允(about me)
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