インプット過多の学生時代と、喋ることが重視されるドイツの小学校教育


学生を卒業した後、一番うれしかったのは、一日に何時間も座って誰かの話を聞き続けなくてよくなったこと。早く時間が過ぎないかなぁ、と思いながら過ごしていると、いかにも人生を無駄遣いしている感じがする。そんな時間がほとんどなくなったことで、日々の圧迫感や虚しさがずいぶん減った。

学生を卒業したあとも、誰かの話をじっと座って何時間も聞き続ける機会が時々ある。自分で選んでその場に行くことが多く、その話の内容に関心があっても、何時間も情報をインプットしてばかりいると、心身が消耗してくる。

先日、8時間の話を聞く日が2日続き、勉強にはなったのだけど、けっこう疲弊した。よく学生時代、机に向かって先生の話を黙って聞き続けるような毎日に耐えられたものだと思った。今のような自由に過ごせる日々を経験した後では、到底耐えられず、今やれと言われたら気が狂うかもしれないと思った。

16時間の話を聞いてきた後、さすがにインプット過多になっていたようで、一日にブログを5本書いた。普段は1日1本のペースでちょうどいいけれど、このときは5本書いてようやくバランスが回復した感じがした。

最近は日々アウトプットすることを心がけているので、インプットとアウトプットのバランスを感じられるようになってきたが、学生時代は、インプットし続けるのが当たり前だと思っていたので、学校で得た情報をもとにアウトプットしていく、という発想がそもそもなかった。教えられたことを覚えて(覚えることすらままならなかったけれど)、教えられたことを再現したり、教えられた方法で問題を解いたりすることがゴールで、自分のフィルターを通してオリジナルなものをつくっていく、という発想がなかった。

学校時代にひたすらインプットし、学生を卒業して初めてアウトプットを求められても、それまで訓練してこなかったことをいきなりできるはずがない。学生の頃から、自分の考えや想い、自分の望むものをさまざまなカタチでアウトプットしていく機会がもっと必要だと思う。


ドイツでは、政治に限らず、とにかく「喋る」ことが小学校のときから重視されているらしい。喋る中身は何でいいが、とにかく何でも発言できて、どんな発言でも排除されないことが徹底されているという。ぼくが通っていた小学校や、一般的な日本の小学校ではおそらく、「喋る」といえば、「正しい回答」を述べるのを求められることがほとんどで、それ以外の発言は排除される。正しいとされている答えが分かっている人だけが発言でき、予め決められた正答を発言することで褒められる。中学生になる頃には、自由な発言ができない鬱憤が積もって、「正しい回答」を述べる者は「調子にのってる」などと鬱憤のはけ口にされるので、そのうち、みんな発言を自制するようになってくる。

ドイツの小学校では、「抗議から社会運動までの手順」を学ぶ機会もあるらしい。
たとえばマンホールから異臭がするという問題があれば、「まず市役所に言う。それで解決しない場合は地元紙の『読者の手紙』へ投稿する。それでもだめなら、社会運動を行う」といった内容だ。
アウトプットというのは、発言して終わりではなく、アウトプットによって世の中に何かを生み出したり何らかの変化を生み出していくことが目的となる。どんな伝え方をすれば市役所の担当者が動いてくれるか、どんな文章を書けば寄稿が効果を発揮するか、どんな行動を起こせば問題が解決するか、そういう実践的な体験ができるのはいいなぁと思った。

人生観を形成し、吸収力旺盛な子どもの頃に何を学ぶかが、後々の人生に大きな影響を及ぼす。子どもたちはたいてい、行きたい学校を自分で選べない。何を学べばその後の人生を心豊かに幸せに生きられるかについて、大人たちは我が身を振り返りながらよくよく考える必要がありそうだ。