ぼくは小学校の終わりくらいから高校卒業まで、実家の近所の英語塾に通っていた。英語が好きになったのはそのおかげかもしれない。塾の先生のように英語を発音できるようになりたいと思った。時々、英語を母語とする方がその塾にホームステイに来ていて、本場の英語に触れることもできた。
子どもの頃、特に都会暮らしでは、家庭以外のコミュニティといえば学校くらいだが、塾に行くことで、それ以外のコミュニティを体験できた。進学塾、公文式、個人塾・・・それぞれ違った文化と雰囲気がある。
小学生の頃、進学塾に通っていた。中学受験をするつもりはなかったが、だんだん級が上がり、受験生と同じクラスで勉強していた。ぼくが通っていた小学校は、身体が比較的小さくておとなしい人が多かったが、その進学塾には別の子どもたちも来ていて、身体がひとまわり大きくてごつい人たちが多く、圧迫感を感じた。先生も子どもたちを脅して勉強させるので、ゴミ箱を蹴飛ばして何個破壊したとか、あぶないウワサをよく聞いた。ある時、ぼくは授業中に無意識のうちに口笛を吹いていて(なぜかV6の曲)、ゴミ箱を破壊したらしき先生を怒らせたことがあった(誰が吹いたのかはバレなかったのでセーフだった)。受験が近づくと、朝から晩までハチマキをして勉強し続ける合宿もあった。そんなに勉強し過ぎたら頭がおかしくなるのではないかと本気で心配になったが、案外おかしくならなかった(おかしくなった人間は自分がおかしいとは気づかないのかもしれないが)。
ぼくが見聞きしてきた狭い範囲内だけど、小学生の頃に無理して勉強し過ぎると、中学生になる頃には疲れ果て、それ以上熱心に勉強し続ける意欲が失われてしまうケースがよくあるようだ。小学生の頃に通っていた進学塾で、ぼくは受験しないので気楽にしていたが、受験に向けて遊ぶ暇もなく勉強しまくっていたクラスメートたちの中には、中学生になると勉強に背を向ける人たちが多いようで、何事も無理し過ぎは後から反動が来るものだと思った。
大学生の頃、英語塾や進学塾でアルバイトをしていた。どの塾にもたいてい、親に無理やり塾に通わせられている子どもたちがいる。「無理やり通わせられている」と本人が言うわけではなく、無理やり通わせられていると思っているかどうかもわからないが、そういう子どもたちは、気の毒なことに無表情になってしまっている。6年生の男の子を担当していたことがあるが、その男の子はこっちが何を言っても一瞬たりとも笑わなかった(笑顔すら見せてくれなかった)。何度も笑わそうと試みたが、そのチャレンジは失敗に終わった。こんなふうになってしまった子どもをまだ塾に通わせ続ける親はどうなっているのだろうと思った。塾に通って勉強していれば、笑顔になれる将来が待っていると考えるのだろう。塾に通わせるよりも野山に放ったほうが子どもは幸せに生きられるように思うけれど。
塾自体が全部わるいとは思わないし、子どもが自分から望んで塾や習い事に通う分にはいいと思うけれど、子どもの意志を尊重せずに親の意志で子どもを塾や習い事に通わせ続けると、子どもの意志や自主性はどんどん失われ、目の輝きが薄らぎ、そのうち笑うことすら忘れてしまう、というのでは、本末転倒。苦労して稼いだお金から、安くない月謝を支払うくらいなのだから、子どもの幸せを願ってのことであるはず。世の中、勉強すれば幸せに生きられるとは限らず、能力を身につければ幸せな生活ができる、とも限らない。
塾に恨みがあるわけではないけれど、小さい頃から塾のリュックを背負わされて疲弊した顔をいている子どもたちを見ると気の毒になる。通っている人(通わせている人)からすれば、「余計なお世話だ」という感じだろうけれど、もっと自由に生きられないものだろうかと思えてくる。
自由に生きるためには、なるべく気の進まないことをしないのがいいように思う。子どもの頃に気の進まないことをしていれば、大人になって気の向くことだけをして暮らせるようになる、というのならいいけれど、気の進まないことをしていると、たいてい、その次にも気の進まないことが待ち受けている。もちろん、自分の望むことをしていくためには、中には気の進まないことも付いてまわるが、望まないことのために望まないことをし続ける、というのは苦痛極まりない。
何のために勉強するのかもはっきしないまま、気の進まない勉強をし続けて、その先に楽しい未来が待ち受けていた、という人はどれくらいいるだろうか?
「何のために勉強するのか?」というのは、子どもの頃の素朴な疑問。塾長にそんな質問をすると、どんな答えが返ってくるだろうか?
「いい学校に進学するため」という答えだろうか。
「それはなんで?」
「いい会社に入るため」
「それはなんで?」
「たくさん給料をもらえて、尊敬も得られるから」
「別にいらないし」
「そんなことを言って、あとから苦労しても知らないぞ」
「今楽しいほうがいいんで」
「今さえよければいいってもんじゃないぞ」
「塾長は今幸せ?」
「・・・まずまずかな」
学生の頃にアルバイトで勤めていた進学塾の塾長は、成績で人間を見ているようなところが多分にあっった。「○×高校なんかに行ったヤツらを見てみろ。みんなサル同然だ」。サルに失礼だし、学校の成績で人間を見下すような塾長の塾に子どもを通わせるのはイヤだと思った。
その塾のアルバイトはその後すぐにやめた。それから何年後かに、塾の近くの駅のホームでその塾長をたまたま見かけた。髪が減り、白髪が増え、やつれていて、気の毒なほどだったが、子どもをサル呼ばわりしていたのを思い出し、因果応報を思わずにはいられなかった。
人間が幸せに生きるために必要なこと(もの)は何だろう? そのために、子どもの頃の時間をどう使うべきだろう? 周りの人たちや世間の常識に合わせて何となく時間を使っていると、その先には何となくの人生が待ち受けている。何となくでもある程度楽しめる世の中ならまだいいかもしれないけれど、なかなか世知辛い世の中だ。子どもの頃をどう過ごすかは、親や大人の影響が多分にある。どんな生き方があるのか、という選択肢や例を示すのもたいてい大人の役割。子どもたちの心に希望の火を灯し続けるにはどうすればいいのか? まずは自分の心に希望の火を灯すところから…。
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