自他の幸せと愛の循環について


どう生きるべきか。それすら自分で選べるのが人間なのだろう。

幸せに生きるにはどう生きるべきか。その時々の自分がどう生きれば幸せになれるか。それを教えてくれるのはその時々の自分の心と気持ち。

自分が幸せになれる方法を誰かにそのまま押しつけても、相手が幸せになれるとは限らない。相手がどうすれば幸せになれるのか。それを想像し、その手助けをすることはできる。それが常にうまくいくとは限らないけれど、何もしないよりはするほうを選びたい。

自分だけ幸せになろうとしてもうまくいかない。自分だけ「得」したような気になっても、表面的な利益を得たとしても、「幸せ」とはあまり関係がない。「愛」がないところに幸せはない。愛は一方通行では得られない。

ものごとは循環している。愛を送れば、愛が返ってくる。愛を受け取れば、愛を返したくなる。見返りを求める愛を送れば、見返りを求める愛が返ってくる。物質的、精神的に余裕がなくなりがちな現代社会では、純粋な愛はそう簡単に見つからない。とはいえ、誰かがそれらしきものを生み出していかないと、ますます希有な存在になってしまう。

物質的、精神的に満たされたからといって愛が生まれるかというと、そういうものでもないと思う。苦しい中からも愛は生まれる。人間は自分で自分の世話すらできていなくても、愛のカケラを交換し合っている。受け取ると、あるいは与えると、やさしくなったり元気になったりする。

思い浮かべるだけで、愛どころかそれに反するものを送りたくなる相手がたいてい誰にでもいると思う。そういう相手とは距離を置いて、自分が愛を送れる相手に送っていれば、回り回って苦手な相手なところにも届くかもしれない。

愛にあふれている人間は、自然と他人の愛を引き出す。愛に飢えているときは、他人から愛を引き出そうとするのではなく、まずは自分の中に存在する愛を探し、見つめる必要があるかもしれない。


by 硲 允(about me)
twitter (@HazamaMakoto