他人に強制されることのない人生を。「やらされてる感」が昔から嫌いだった。


ぼくは昔から、他人に言われたことをするのが嫌いだった。

学生の頃、先生から配られる参考書で勉強すると「やらされている」気がして、書店で自分で見つけた参考書で勉強した。今思うと、渡された参考書であっても、自分でそれを使うと決めて取り組むなら「やらされている」気がせずにできるものだと思うけれど、当時のぼくには難しかった。

「やらされた」ことを気が進まないまましていると、「他人のせい」にし始める危険性を感じた。「言われた通りやったのにうまくいかない」とか、ヘタすれば「言われた通りしてやったのに」というようになりかねない。自分のためのはずなのに、最終的に決めるのは自分のはずなのに、うまくいかなかったときに原因を他人に押しつけるようなことになりかねない。

他人からの思いやりのあるアドバイスはありがたく受け止めたいけれど、最終的に「決断し」「行動する」のは自分。他人には「強制する」権利はないはずだし、自分にもそれに「従属」する義務はないはず。他人のアドバイスをあからさまにはねつけたら角が立つけれど、それが思いやりから出たものなら感謝して受け止め、考慮したうえで自分がこうだと思うことを実行すればいい。必要があれば他人にも誠意をもって説明すれば、難色を示すかもしれないけれど、本人の意に反することをするように強制することはできないはず。強制する権利を持っているような場所や人間関係からは距離を置くようにしてきた。既にそういう環境に陥ってしまったら、ぼくならなるべく早くそこから抜け出そうとする。

他人に何かを強制しようとするような人間はたいてい、その人自身、自由を奪われている。自分自身、何かを強制されているから、同じことを他人にもしようとする。そんな連鎖は早いうちに断ち切ってしまったほうがいい。

直接的、間接的に他人に何かを強制するツールになっているのが「お金」だと思う。お金を得る必要がなければしないような仕事をしている場合、お金のシステムによって、したくないことをさせられていることになる。ぼく自身、まだそこから完全に抜け出せたわけではないけれど、抜け出しつつある。

人間、自分の行動や思考に関して強制させられ続けていると、目に生気がなくなってくる。目を見れば、その人がどれくらい他人に「強制させられる」人生を送ってきたかがうかがい知れる。

相手に強制する権利がないのに、自分から強制させられた気になって相手の思惑にはまっていってしまう場合もある。どこかへ食べに行って、自分以外のみんなが同じものを注文したから自分も同じものを何となく注文する、なんていうのは危険な兆候かもしれない。他人がどうあろうと、自分のことは自分で決める。それで他人がどう思おうと、何を言ってこようと、自分の行動を強制する権利はない。そう強く思い、簡単なところから実践していかないと、ついつい流されてしまいやすいのがこの世の中だ。


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by 硲 允(about me)
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