「食っていく」ために働かされるというシステムについて。


「~で食っていく」「~では食っていけない」という言い方がよくされる。

食っていくために苦しくてつまらない仕事をして、衣食住こと足りる暮らしをしていくのがやっと、という場合も多いと思う。

仕事にやりがいや生き甲斐を感じられればラッキーだけど、そうでなければ、人生の大半の時間を「食っていく」(もう少し幅を広げると、衣食住、生きていくために最低限必要なものを得る)ためだけに費やすことになる。もっと厳密に言えば、最低限必要な衣食住を得る以上のお金が得られる場合もあるし、やりがいや生き甲斐をあまり感じられなくても「今の世の中」では必要な仕事かもしれない。しかし、衣食住が一生満たされていてそのためのお金を得る必要がなければしないであろう仕事に一人の人間の人生の大半を縛られる、というのはどんなものか。どうも罠にはめられている感じがする。

地球上の資源(恵み)を大事に扱い、少数の人間が独り占めすることなく分け合い、人間の能力や技術やテクノロジーをうまく活用すれば、地球上の誰もが衣食住こと足りて、そのうえでお互いの幸せや喜びにつながる創造活動もしていけるはずだと思う。

独り占めしたところで幸せにはなれない。心が満たされてそうな大金持ちを見たことがない。「奪う」よりも「与える」喜びのほうが大きい。競争で「勝つ」喜びよりも「協力する」喜びのほうが大きい。

「食っていく」話に戻るけれど、「食っていくため」に働いていても、仕事で忙しいとろくな食事もできない。ぼくも忙しかった頃は、コンビニ弁当と外食ばかりだった。そんな食事が続くと、体に次々と不調が出てくる。健康を犠牲にしてどんな仕事をしているかというと、突き詰めて考えてみれば誰かの金儲けの手伝い。それで金を儲けた誰かさんが幸せになっているかというと、そんなことはなく、贅沢な食事三昧で同じく体に不調を抱えていることだろう。世の中、誰もたいして幸せにならないシステムが至るところに出来上がっている。

できあがったシステムというのは、それが存在する世の中に生きる人間には「当たり前」に映る。だからあまり疑わない。周りの大勢の人たちがそれに従って生きているので、自分もそれに倣っていれば「安心感」がある。だから簡単には抜け出せない。そのシステムの中で「かなり不幸」な状況に陥ったら抜け出したくなるが、「まあまあ不幸」な状態だと、「そんなもん」だと思ってしまう。

今までの人生の延長線上を生きて、自分の人生は幸せだったと死ぬときに思えるだろうか。自分の人生を満足いくものにするために全力を尽くしたと思えるだろうか。自分ではどうしようもないことには仕方のないこともあるけれど、自分でどうにかできたことをしなかったという後悔はしたくない。

世の中のシステムが変わるのを待っていたら、この人生では手遅れになってしまうかもしれない。自分が望まないシステムから一人ずつ抜け出していけば、そのうち世の中の全体のシステムも変わっているはず。誰かがつくったシステムをまわしていく手伝いはしたくない。自分の人生は自分が納得いくように生きたい。


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by 硲 允(about me)
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