田舎に移住する若者は生産性が低い?


ある本を読んでいたら、生産性がどうのと書いているくだりで、田舎に移住する若者は「生産性が低い」カテゴリーに分類されていて、ちょっとムカッとしたが、腹が立つというよりは、どういう思考回路でそういう考えになるのか不思議に思った。

一概に「田舎に移住する若者」といっても、田舎で何をするかは人それぞれだけど、都会にいるときよりも収入が少なくなったら、それは生産性が落ちたことになるのだろうか? ぼくの普段の暮らしがどういうものか話すと、「GDPに貢献していない」と言われたことがあるが、GDPに「貢献」(!)していなければ、生産性が低いということになるのだろうか?

昨今、田舎に移住するような若者は、食べものを育てて自分でつくったり、セルフビルドやハーフビルドで家を建てたり、森や海や里山の資源を生かす仕事をしたり、そういうことに興味・関心のあるケースが多いだろう。現金収入やGDPに関わりのないところで、いろいろいろな「生産」が伴い、そういうことに喜びを感じるからこそ田舎に移住するケースが多いと思うのだけど、そういう暮らしや仕事は果たして生産性が低いといえるだろうか?

パソコンの前で一日中過ごして、効率よくお金をたくさん稼ぎ、GDPの数値アップに関わったとして、何を「生産」したといえるのだろう?

お金で買えるものは、誰かが生産してくれたものである。これがなければ命が成り立たない食にしても、都会のスーパーに行って並んでいる食材は、田舎で「生産性が低い」といわれるかもしれない農業をしてつくられている。生活の基本である衣・食・住…服にしても、食べものにしても、家にしても、それがどうやってつくられたかをたどっていくと、お金の収入の面では「生産性が低い」カテゴリーに入れられそうな人たちが働いているおかげで、成り立っている。

効率よくお金を得て、高価なモノに囲まれた暮らしている人が「生産性が高い」とみされるような風潮が未だに根強い気がするが、お金でモノを買うことは「生産」ではなくどちらかというと「消費」だし、お金を稼ぐこと=「生産」でもなく、お金の額を基準にするとしても、何を「つくって」お金を得ているかを「生産」の判断基準とするべきだろう。

「生産」といっても、たいていの場合、無から有をつくり出すわけではなく、地球の資源を使って何かをつくるわけだけど、地球の資源を無駄遣いしたり、地球を汚したり破壊したりしながら何かをつくったとしても、それは「生産性」から差し引いて考えるべきだとも思う。この「差し引き」分をちゃんと考慮に入れると、田舎で自然を相手にして暮らしているような若者は生産性が高い部類に入ると思うのだけど、都会の人間が上っ面や数字だけで見ると、若いのにちっぽけなことをしているように見えるのだろう。


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by 硲 允(about me)