「おたまじゃくし無用論」(小泉文夫 著)を読んで。

記憶にある限り、自分の人生で初めて感動した体験というのは、幼稚園で先生が弾くオルガンの音を耳にした時だった。あの胸に響く感じは、何だったのだろう。オルガンの音色というよりも、和音のハーモニーだという気もする。

その後、親にお願いして、ピアノを習わせてもらうことになった。小学校の中学年まで習っていたので、4~5年はピアノを弾いていた。やめてしまったのはもったいなかったと今になって思うけれど、当時はもう面白さを感じられなくなってしまっていたので無理して続けるよりはよかったと思う。

小さい頃にピアノを毎日のように弾いていると、ある程度の音感が身についた。絶対音感は無いが、簡単なものなら聴いたメロディを(ハ長調に置き換えて)ドレミファで歌うことはできる。ところが、黒鍵がつく他の調はお手上げで、ハ長調のドレミファに置き換えられないようなメロディは、自分の頭と身体に入ってきにくいように思う。ピアノのレッスンというと、ほとんどクラシックの曲だったので、違うジャンルのリズムやメロディへの馴染みが薄く、ピアノをベースにして頭で考えてしまうので、自分に馴染みのない音楽を直感的に理解するのが苦手だと感じていた。

最近、「おたまじゃくし無用論」(小泉文夫 著)という本を読んで、まさにそのようなことが書かれていた。




幼児の音楽教育の第ニのポイントは、ただ一種類の音楽の体系で教育をしてゆくと、耳がそのように固まり、音楽的な感受性も一つの型にはまってしまう恐れがあるという点です。このような訓練を受けた子どもは、その体制からはずれた音楽に対して、拒絶反応を示すようになります(p. 143)

ぼくは大人になってからジャズ・ギターを習いはじめて、これまでの一つの型から抜け出しつつあるように感じている。ジャズを聴くようになってから、ブルーズ、ソウル、レゲエなど、それまでほとんど興味すらなかった音楽のよさがわかるようになってきた。そもそも、今まで知っていた(習っていた)ものと、リズムのとり方が全然違う音楽はノリ方がわからなかった。そして、身体で感じるのではなく、わからない…というところで止まっていた。メトロノームでリズムを刻み、楽譜を見て頭で考えて弾いてばかりいた弊害だろう。クラシックにしても、先生が手本でちょっと弾いてくれるのをレッスンで聴くくらいで、家で聴くことはほとんどなかった。なぜ聴かなかったのだろうと今では不思議に思うのだけど、図書館で借りてきて聴くような自主性が当時の自分にはなかったのが残念だ。そういえば少しだけ教わっていたピアノの先生に、何の曲を弾きたいかと聞かれて、それまで習っていた先生にそんなことを聞かれたことはなく面くらい、弾きたい曲は何ひとつ思い浮かばなかった。先生は仕方なく、アラジンのテーマソング「A Whole New World」と幽遊白書(アニメ)のテーマソングを選んでくれたのを思い出す。

小泉さんの本を読んでいると、大人になってからでは遅いというような書き方をされていることが多いけれど、人間の可能性はいくら年をとってからでも無限だと信じている。

この本は、音楽教育に関して多くの示唆に富み、学校などの音楽教育に関わる方たちにも一読いただきたい本だと思った。

音楽教育の目的について、まさに、と思った箇所を抜粋したい。

自分の言いたいことを言葉で言えるようにするのは国語の教育です。自分の表現したいことを、言葉や文字で発表するばかりでなく、それを音楽でも表せるようにさせたい。自分の歌いたい歌が歌える、自分の鳴らしたい楽器が鳴らせる、そういう積極的で主体的な音楽性を育ててやることが大切なのです。
第二のポイントは、よその人が音楽で表現したときに、その意味や美しさがちゃんとわかるような、豊かな感受性を持った人間に育てるということです。ただピアノが上手に弾けるとか、歌がうまく歌えるとかいうことばかりでなく、自分の仲間が、友達が、隣人が、歌ったり弾いたりしたときに、それが正確に理解できなければ、その人は音楽的に豊かだとはいえないのです。(p. 145)


音楽は言葉と同じく表現手段。音楽そのものに溺れたり、技術に固執したりすることは不幸への入口となりかねません。「音楽的に豊か」で豊かな人生を送りたいものです。


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by 硲 允(about me)