不安の種

不安はいつでもつきまとうけど、不安になりがちな世の中なのかもしれない。

不安の種について、ネットで調べものをし過ぎていると、ますます不安になってくることがある。自分が必要と思う分だけ、さっさと調べて、必要な、自分にできる対策と選択と判断はさっとして、あとはなるべく不安の種は頭から離してたのしく過ごしているのがよさそう。

どれだけ調べても、なかなかはっきりしないこともある。不明なことには不安がつきまとう。真実はデータでわからないこともある。心だけでもあやういこともある。自分がもつあらゆるものを総動員して、今の自分にとってのひとまずの正解を探し出す。それは常に移り変わる。移り変わっていいものだと思っておいたほうが柔軟になれる。

不安は緊張と一体になっている。かたくなりすぎると、ひびが入る。かたいものは案外もろく、割れやすいこともある。空気がパンパンに入った風船は、細いひと針つつかれると破裂してしまう。分厚いゴムまりは地面にたたきつけてもへっちゃらな顔をしている。ふりかかるトゲにもへっちゃらな状態を自分でキープする。ゆるんでリラックス。不安と緊張を知った分だけ、ゆるみ方が深くなる、ということもあるかもしれない。

人間は年を経るごとに、ふつう、かたくなっていくように見える。子どもや学生と呼ばれる人たちは、大人と呼ばれる人たちよりもゆるんでいることが多い。大人も、人生の後半の後半に入った頃にはゆるんでいくようにも見える。それを待つまでもなく、ゆるもうと思えばいつからでもゆるめるのだろう。かたくて強いものがよしとされた時代が変わった、あるいは変わりつつあるようにも見える。

不安の種を蒔く人もいれば、喜びの種を蒔く人もいる。人は両方の種を蒔ける。種苗屋へ行って買ってこなくても、両方の種をポケットから無限に取り出せる。どの種を蒔くかを意識的に選ぼうとするだけでも違ってくるのだろう。今蒔いた種がどんな芽を出し、どんな花を咲かせ、どんな実を結ぶのか。それを楽しみに待てる種を蒔きたい。