誰かがつくってくれたものを味わうことと、自分で「つくる」ことについて徒然と。



何かを「つくる」ことを主体の暮らしをしていると、何かを買って手に入れたいという執着が薄らいでくるように思う。

誰かがつくってくれたものを味わうのは簡単でラクで楽しくてクセになる。自分で「つくる」のはそう簡単ではないときもあり面倒だったり苦しいときがあったりするけれど、自分で納得できるものが完成したときの満足感は大きい。

自分で「つくる」ことをしていると、誰かがつくってくれたものの味わい方も違ってくる。文章を書くにしても、普段から書いていると、本を読んでも書いているときの気持ちがわかるようになったり、実感がこもっているところと想像でなんとなく書いているところの違いや、その文章の意図や目的などが読みとれるようになってくる。

「つくる」ことを主体にしていると、誰かがつくってくれたものに触れ、味わうことが、自分の制作の糧となる。自分でつくらずに他人のものを味わってばかりいると、消化不良を起こす。食べ過ぎて寝転がって起きあがるのも面倒になるのと同じで、自分で何かをつくろうという気力も失われてしまいがち。

自分で「つくる」ことをせずに、一流のものを味わってばかりいると、感性は養われていいものを見分けることができるようになるかもしれないけれど、その分、自分がつくったもののレベルの低さもわかるようになるので、自分でつくる気が失せてくる、という場合もある。世の中、こんなに優れたものがすでにあるし、自分には足元にも及ばない人たちが今もつくり続けているのだから、そこに自分がつくる低レベルなものを付け加える必要はないと思えてくる。そうならないためには、「他人と比べない」のが大事(それがなかなか難しいけれど)。他人がどうあれ、自分は目の前の小さなものをつくり続け、心を込めてつくっていれば時には誰かが喜んでくれたり誰かの役に立ったりすることもある。誰かと、何かと比べると低レベルであったとしても、少しずつ、自分が思うようなものをつくれるようになってくるのは楽しい。

何かを買うことで得られる満足感はたいして持続しないことが多い。その空虚な感じを埋めたくてどんどん買い物に走り、買い物中毒(ショッパホリック)になってしまう人もいる。何かをつくり上げることで得られる満足感もずっとは持続しないけれど、その満足感はさらにいいものをつくりたいという気持ちにつながっていきやすい。

何をつくりたいかは、人それぞれ。何もつくりたいものがない、という場合、誰かがつくってくれたものに囲まれてすぎているのかもしれない。現代社会では何でもお金で解決できると思ってしまうくらい、誰かがつくってくれたものがあふれ、お金を払えば手に入れられるようになっている。「暮らしていくために無ければ困るものをお金で買うのではなく自分でつくる」ことを心がけるだけでも、つくりたいものはいろいろ出てくる。買ったものはすぐに飽きて新しいものが欲しくなることがよくあるけれど、自分でつくったものには愛着がわき、壊れても自分で直せるし、必要に応じて作り直していけば、腕も上がり、どんどん自分の思い通りのものが作れるようになっていく。


【関連記事】
by 硲 允(about me)
twitter (@HazamaMakoto