「ものを考える」のは机の前でもできるけれど、「ものを想う」のは自然の中で適度に身体を動かしながらのほうがやりやすい。
畑で機械を使わずに手で草を刈り続けているようなとき、頭の中にいろんな考えや想いが浮かんでは消えていく。ふとしたとき、ちょっとしたアイデアが浮かぶことがある。ブログのコラム系の記事の構想もそういうときに思いつくことが多い。
草刈り機などの機械を使っているときは、機械の操作や身体の扱いにある程度の注意を向けていないと危険なので、「ものを想う」余裕が残されない(音が大きいという問題もある)。
意識的にはほとんどものを考えずに手足を動かすような作業が「ものを想う」には向いているように思える。自転車をこいでいるときもいい。車を運転しながら「もの想い」にふけるのは危険だけど、自転車なら車ほど周囲に注意を向けなくても運転できる。自転車をこいでいるとふとメロディが浮かんでくることも時々ある。
あちこちに情報があふれ、いろんな情報が飛び交い、飛び込んでくるこの現代社会では、「ものを想う」時間が奪われがち。電車に乗っても、スマホがない時代には目を閉じて「もの想い」にふけっている人が多かったけれど、最近では、たいていの人は暇さえあればスマホで知り合いや友だちの動向を偵察するかゲームで暇つぶしをしているようだ。
せわしなく忙しい世の中だからこそ、時々ものを想える空白の時間をつくらないと、周りの情報に呑み込まれ、流されてしまいがち。与えられた問いの答えはスクリーンに向かいながらでも考えられるけれど、根本的な問いは空白の時間に自分の内側から生まれてくるものだと思う。
ものを考える時間とものを想う時間を行き来することで、両方が高まっていきやすい。ものを想わずに考え続けていると、自分の人生にとって実は大事ではないことを考えつづけていた、ということになりかねない。ものを考えずに想い続けていても、ただぼんやりしていただけ、ということになりかねない。
ものを想う空白の時間があってこそ、何気なく仕入れた情報を咀嚼して自分の活動に生かしていきやすくなる。ものを想う時間があってこそ、誰かが引いた設計図の上をそつなく歩いていく方法ではなく、自分の設計図をぼんやりとでも描いていきやすくなる。
ものを想う時間は人によって異なる。散歩、ヨガ、星空の下での瞑想、山歩き、お気に入りのカフェで一人で過ごす時間・・・。あまり思いつかないけれど、ライフスタイルによっていろんな方法がありそう(ぼくはやっぱり草刈りかな・・)。
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