最近、人や物の名前がすぐに出てこないことが増えてきた。昨日もカレーを食べるときによく一緒に飲む牛乳みたいな甘いやつ・・・と思い浮かべながら、ネットで検索してようやく「ラッシー」という名前を見つけた。
その後、田んぼへ向かって歩きながら、Google検索で何でも調べられるようになって、人間(というかぼく)の知能は退化してきたのではないかとふと思った。
「忘れても調べればいいや」と思っていると、脳が怠けるところがあるように思う。簡単に調べられてすぐにわかる、というのは便利なようで、脳にとっては怠ける絶好の理由になりやすい。本で調べたり誰かに聞いたりするとなると、時間も手間もかかるから覚えておこう、となりやすいけれど、パソコンやモバイルのキーを叩いてすぐに出てくる検索結果は自分の脳代わりにしてしまいやすい。
ネットで検索したら簡単に出てくるものをわざわざ頭に記憶しなくても、頭の容量は空けておいて考えることに使うべきだ、というような意見も時々見聞きする。ぼくは学生の頃にそういう意見に惑わされたのもあって、自分の脳の記憶を疎かにしてしまったけれど、自分の経験上、いろんな情報は整理して自分の頭に記憶しておいて、必要なときに簡単に取り出せるようにしておいたほうがいいと思うようになった。ネットで検索したらいいといっても、いちいち調べているとけっこう時間がかかるし、既に存在する情報をもとに自分で何かを考えたり構想したりアイデアを生み出す際、ネットにある情報よりも自分の頭の中にある情報の方が「使える」情報になっていることが多いように思う。自分で咀嚼し、整理した情報は、自分に馴染みがあるので加工しやすい情報になっている。
ネット世代は、他人の話を聞くにしても、どうせネットで調べたらわかることだから、と疎かにしがちな傾向があるのではないかと思う(オオムラサキを目の前にして説明を聞いている最中、スマホで調べ始めた人の話を前にブログに書いたことがある)。話を聞いてそのまま信じ込むのも問題だけど、どうせネットで調べたらわかるだろうと真剣に聞かないのも問題である。真偽について批判的に聞いたうえで、ネットを含めた他のソースを使って自分の頭と感覚で検証していかないと本当のことは見えてきにくい。
二次情報、三次情報があふれるなか、一次情報の重要性は高まっていると思う。一次情報らしきものはネットにあふれているけれど、不確かな情報も多い。その真偽を判断するには自分の知識と感覚と思考を総動員する必要がある。その際、自分が直接体験した一次情報が重要になってくるだろう。
インターネット上にどれだけ情報があふれ、簡単に取り出せるようになったとしても、本当の情報を必要なときに得てそれを自分の人生に生かしていくためには、自分の見聞や体験を広げ、自分の頭を鍛えていくことが重要なことには変わりない。
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