自分らしい文体を築くには、どうすればいいのだろうか。
そこから脱却するのにけっこう苦労した。最初から志賀直哉の忠告に従っておけばよかったのかもしれないけれど、好きな作家の作品は連続して読みたくなるし、ほかに読みたい作家は少なく、勉強のためにいろいろ読むのも気が進まなかった。
武者小路実篤の後は、文学ではなく、哲学や宗教やスピリチュアル関係などの本をいろいろ読んだのもよかったかもしれない。
文章というのは、普段、どんな文章を読んでいるかに影響を受ける。現代文学ばかり読んでいると現代文学風の文章になってくるし、商業的な文章ばかり読んでいるとそういう感じになってくるし、明治時代の文学ばかり読んでいるとうっかり旧仮名遣いで書いてしまうことがある。どれくらい影響を受けるかは人によって違うと思うけれど、そういう影響があることを意識しながら他人の文章に接しないと、いつの間にか「染まって」しまってそこから抜け出せなくなることがある。
自分らしい文体を築くには、志賀直哉の言う通り、一人の人の文章ばかり読まない、ということの他に、同じ業種の人の文章ばかり読まないように心がけるのもいいかもしれないと思った。
ブログにはブログっぽい文体や言い回しがあるし(~してみた」というタイトルなど)、ライターを名乗る人の文章にはライターっぽさが漂う(たとえば、「~だとか。」で終わる文がよく出てくる)。そういう表現は「いかにも」な感じがするので、ぼくはなるべく使わないように心がけている。
同じジャンルの文章ばかり読んでいると、ある表現がそのジャンル特有のものだと気づかず、知らず知らずのうちに染まってしまうかもしれないけれど、いろんなジャンルを横断していればそういうことを防ぎやすくなる。
同じ言い回しを頻繁に使って特色を出したいなら、誰かが使っている言い回しではなく、自分オリジナルのものを考え出すのがいいように思う。
こういうことは、文章に限らず、あらゆる表現活動で問題になりがちなのだろう。
益子焼きをされているある陶芸家の方が講演で、師匠のスタイルからなかなか抜け出せず、師匠から学んだ技を全部捨てて自分のスタイルを築いた、という話を聞いたことがある。尊敬する相手のスタイルから抜けだし、自分独自のスタイルを築くのはそれくらい大変なことなのだと思う。
何より大事なのは、自分自身で表現し続けることだと思う。自分独自の表現をしたいという思いがなければ、誰かの物真似で満足してしまう。表現し続けていれば、物真似に過ぎない自分の表現に嫌気がさしてくる。物真似があふれる世界よりも、一人ひとりのその人らしい表現があふれる世界のほうが面白いと思う。
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by 硲 允(about me)
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